投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月14日(土)12時24分37秒   通報
■ 御聖訓「最上第一の相伝あり」

斉藤: 日蓮大聖人が「最上第一の相伝あり」(御書 p781)と言われた経文です。
〈「釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり、此の文までにて経は終るなり当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり」(御書 p781)>
八年間、説き続けてきた法華経を、たった一文で要約すると「未来に現れる法華経の行者を『仏の如くに』敬いなさい」になるのだ、と。
「仏の如くに」というのは「仏として」という意味です。末法の法華経の行者は「仏」だというのが真意です。

名誉会長: その一点こそが、法華経全体の「魂」なのです。ゆえに「最上第一の相伝」と言われた。
末法において、日蓮大聖人を「仏」と仰がずして、法華経は無意味だということです。そのうえで、総じては、日蓮大聖人に直結して広宣流布に生きる門下をも、「その姿を見たら、遠くからでも立ち上がって、仏に敬意を表すように、恭しく迎えるべきである」と言い遺してくださっているのです。

須田: すごいことですね! 大聖人の「最上第一の相伝」を踏みにじった宗門は、大聖人に弓を引いたことになります。

遠藤: 日願宗でいう「相伝」なるものが、大聖人と全く無関係であることが、この一点からでも明々白々です。

斉藤: 大聖人から相伝を受けられた日興上人も、最後の“遺言”(「遺誠置文」) のなかで、この一点を述べておられる。この一点が、大聖人との師弟不二の魂の叫びであったことが明瞭です。
「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと錐も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」(御書 p1618) —- 「身は軽く法は重し、とする弘教の実践者」に対しては、たとえ、その人が、位や立場が低い法師であっても、「当に仏を敬うが如くすべし」との道理のままに、信じ敬っていくべきである —- 。

遠藤: まさに学会精神そのものですね。

須田: 折伏する人が、どんな高位の人よりも尊いのだ、と。

名誉会長: そうです。たとえ弘教がなかなかできなくても、人から尊敬されなくても、支部員のこと、学会のこと、御本尊様のことを心から思い、広宣流布を願って活動しきっている人は、黄金の人です。「仏の使い」です。
どんな誹謗を受け、迫害を受けても、最後は必ず成仏の境涯になる。少し長く見れば、わかります。 5年、10年、20年、30年、そして一生を見れば絶対にわかる。
反対に、どんな幹部になり、有名人になろうとも、信心をなくしたり、後輩への思いやりがなければ、成仏はできない。仏さまの子どもである学会員を、自分の思いやりのなさから苦しめるようであれば、その報いは当然あります。
■ 「初め」と「終わり」の「一字」で「生死」

名誉会長: 普賢品で忘れてならないのは、その「最後の一字」です。
「去」の一字です。これは「死」を意味する。

斉藤: はい。普賢品では、普賢菩薩が「末法の行者を守ります」と誓いを述べた後、今度は釈尊が、普賢菩薩をたたえます。
自分も、滅後の行者を守るから、「普賢菩薩よ、その人を仏のごとく敬え」と、先ほどの説法がなされます。

須田: そこまでで、法華経二十八品の実質の説法は終わるわけですね。

斉藤: その後、霊鷲山の大衆は、皆、大いに歓喜し、仏の言葉を抱きしめて、仏に礼をして去ります。これで、しめくくりとなります。この最後の一句が「作礼而去(礼を作して去りにき)」(法華経 p672)です。
大聖人は、二十八品の最後の「去」の字は「死」を意味すると仰せです。そして、二十八品の最初の一字である(「如是我聞」是の如きを、我聞きき)」の)「如」の字は「生」を表すと。

須田: 「如」で始まり、「去」で終わる。もちろん、これは鳩摩羅什が漢文に翻訳した時に、意識して、そうしたのだと思います。

斉藤: それは何を表しているのか。「生死」の二法であるというのが、大聖人の仰せです。

名誉会長: 素晴らしい翻訳だね。(寿量品の)自我偈も、「自」で始まり「身」で終わる。「自身」です。
「始終自身なり」(御書 p759)と大聖人は仰せだ。“自分自身”の生命が、三世永遠に仏として続くというのが、自我偈の本旨です。その元意を端的に表現している。
二十八品全体でも、始めの一字と終わりの一字が「如」と「去」で、「生」と「死」を表している。

須田: 羅什三蔵は天才ですね。