投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月13日(金)17時23分3秒   通報
■ 誠心誠意で、人の心を満たす

斉藤: 世間の人は、創価学会を「強固な組織」のように見がちですが、実は「組織が強固」なのではなく、池田先生と会員一人一人の「心の絆」が強靭なんですね。その一点を見ないと、学会はわからないと思います。
また、悪人のほうが、そのことをわかっていて(笑い)、この絆を断ち切ろうと、そこに焦点を定めてくることも事実です。

名誉会長: 私のことはともかく、現代において、組織の命令だけで、人がついてくるなんて考えるほうが、おかしい。
何の強制力があるわけではなし、いやいややっていて、力が出るわけもない。
「一人の人を大切に」。これしかない。これに徹したところが勝つ。このことは、何度でも言っておきます。
例えば、幹部がだれかを指導してきたとする。「次、いつ会うことにしたのか」と聞くと、約束をしていない場合がある。それでは、相手は目標をもてない。「二ヵ月後に会いましょう」とか、「三カ月後に会うまでに、こう頑張ろう」とか、目標を一緒に決めることによって、一念が定まっていく。 これが「勧発」です。
そして、約束したら、こちらも、どんなことがあっても実行しなければならない。そのために、どんなに苦労しようとも。この「誠心誠意」の積み重ねによって、広宣流布は進んできたのです。

須田: だいぶ前ですが、先生が、ある人材グループの会合一人の青年をずっと激励しておられたのを覚えています。
「○○君、頑張れ!」と、何度も何度も、名前を呼んで。じつは、彼は信心から遠ざかっていました。先生の励ましで、がぜん元気になったのですが、驚いたのは懇談会の最後に、先生が言われたことです。「彼がきよう参加した裏には、必ず、だれかが激励に行ったはずです。だれですか?」と。
さっと何人かが手を挙げました。実は、彼らは忙しい合間をぬって、交代で激励に通っていたのです。だれも知らないところで頑張っている人のことが、どうして、先生には、ぱっとわかるのか —- と自分を反省したものです。

斉藤: 先生ご自身が「陰で」苦労してこられたからなんでしようね。
〈会長時代、名誉会長は語った。「久しぶりに自宅に帰り、床についても、電車の音を聞いては登山列車の安否を思い、車の音を聞いては、バス登山者の無事を祈らずにはおれなかった。さらに、幹部の健康、きのう指導を受けにきた人の無事安穏を祈っての唱題 —- かたときも心の休まることはなかった」と>

名誉会長: 私が願うのは、私に代わって、幹部の皆が、会員の面倒を優しく見てもらいたいということです。
“気がきかない”幹部ではいけない。昔の日本ではおうように、大ざっぱなのが大物のような風潮があったが、とんでもない時代錆誤です。
仏法は、徹頭徹尾、「人間の世界」だ。だから、「人間が人間を満足させる」ことが、仏法の修行なのです。
皆が何を今、求めているのか。疲れていないか。おなかはすいていないか。何か言いたいこと、聞いてもらいたいことがあるのではないか —- 敏感すぎるくらい敏感でなければならない。
■ 「実質主義でいけ!」 —- 戸田先生

名誉会長: 会合にしても、無駄な会合は悪です。
昭和31年(1956年)の参院選で、大阪は勝ったが、東京は敗れた。その時、戸田先生は「形式主義を排して、実質主義でいけ!」と、厳しく指導された。<当時、会合の数が、あまりにも多く、実質的な個人指導などが十分にできていなかった。そこで少人数の「組座談会」一本の方針が打ち出され、皆が第一線に飛び出した>
悩める人を救うための学会です。会合は手段です。それが会合をこなすだけの組織になっては本末転倒です。
苦しんでいる人がいないか、行き詰まっているところはないか、サーチライトを当てて、探し出すのです。問題は必ずある。そこへ直ちに飛んでいって指導し、「励まし」を贈ることです。
私は、一度会った人は、最後まで励まします。その人が、千里の果てに行こうとも、信心を少々休んでいようと、どんなことがあっても守ってあげたい。退転しそうな人は、背負ってでも、抱いてでも、引っ張ってでも、一緒に素晴らしい妙法の功徳に浴させてあげたい。
「戦った功徳は、こんなにすごいのか!」ということを実感させてあげたい。相手を幸福にしたいという真心が通じれば、「はっぱ」などかけなくとも、皆、立ち上がるのです。また「真心が通じますように」と祈っていくことです。
■ 「無駄な会合や報告」はないか

名誉会長: そして、会合で人を集める時は、覚悟して集めなければならない。それぞれ予定をもっている人、忙しい人を集めるのだから、皆が「来てよかった!」「行かなければ損だ!」という会合にしなければならない。
幹部が話す内容や順番も、よく検討して、たとえ一人でも「つまらなかった」と言わせない決心で臨むべきです。何も、長くやらなければいけないというわけでもない。短時間で終われたら、そのほうがいいのだし、、一番価値的にやるべきです。「価値創造の団体」なのだから。それが「一人の人を大切に」ということに通じる。
会合ひとつでも「勝負」なのです。また、皆を消耗させるだけの、不必要な報告も、「実質本位」とは言えない。数字をいじくっても、何にも出てこない。少ないお金を何回、計算しなおしても、それでお金が増えるわけではない(笑い)。そんなひまがあるなら、稼いだほうがいい(笑い)。
報告や集計や書類づくりのために、大切な皆が疲れては本末転倒です。座談会に行った後、「あまり盛り上がっていませんでした」などと報告したって、何にもならない(笑い)。報告するために行ったわけではない。集まった人を満足させるために行ったのです。しかも、いやいやながら報告させても、うそが多くなる(笑い)。それでは組織が、よどんでしまう。
もちろん、機構上、必要な報告をとるのがいけないというのではない。皆が喜んで行動し、喜んで報告してくるような雰囲気をつくることです。そのためには、入魂の「励まし」であり、「勧発」です。弘教ができたら、皆、喜んで「できました!」と報告したくなるでしよう。
■ 妙法を「恋慕」する信心

斉藤: よくわかりました。この「勧発」について、天台は「恋法(法を恋う)」のことであると言っています。これは、妙法の素晴らしさを恋慕し、渇仰しているゆえに、人にも勧めないでいられない心を指していると思います。

遠藤: 仏法の偉大さを知った学会員が、語らずにいられなくなる姿も、これですね。

名誉会長: 「御本尊が大好きだ」「勤行が大好きだ」「学会活動が大好きだ」という信心です。そうなれば、「生きていることが楽しい。人生が大好きだ」という生活になるのです。

速藤 御書にも仰せです。
「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし」(御書 p1558)
〈飢えた時に食べものを願い、のどが渇いて水を欲しがるように、恋しい人に会いたいように、病気になれば薬を頼るように、きれいな人が紅や白粉をつけるように、御本尊には信心をしていきなさい。そうでなければ後悔しますよ〉

名誉会長: 信心は「心」です。形式ではない。時間の長さでもない。法を求める「心」に「功徳」はある。
例えば、忙しくて、なかなか活動できない。しかし、三十分でも会合に出よう。週に半日でも活動しよう —- その「心」に大いなる功徳がある。
また周囲も、そういう人を理解し、励ましてあげることだ。いつも出てきていないと相手にしないというのでは無慈悲です。むしろ、いつも会合に来ている人は安心だ。来られない人をどう励ましていくかを考えなければならない。これができれば、広宣流布は今の何倍も広がっていくに違いない。