投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月10日(火)18時36分26秒   通報
■ どんな人にだって悩みはある

遠藤: 例えば、幹部であるほど「自分がこんなことで悩んでいるのは恥ずかしい」と思って、素直に指導を受けられない場合がありますね。

須田: 実際、「あの人は幹部のくせに」と、冷たい目で見る人もいるようですから —- 。

名誉会長: どんな人にだって、悩みがある。凡夫なんだし、悩みがあるから信心しているのです。子どもが学校に行かない。主人が頑張らない。家族が寝たきりになってしまった。そういう悩みがあるから前進もできる。煩悩即菩提です。
幹部だからと言って、完全な人間なんかいるわけがない。それを背伸びして、自分をよく見せようとしても、自分も苦しいし、周囲だって納得できるわけがない。ありのままの自分でいいんです。「私には、こんな悩みがあります。でも、最後には必ず解決してみせます。活動をやりきって、人間革命してみせます。こんな自分ですが、広宣流布のために一緒に頑張ってほしいのです」と謙虚に言っていけばいいのです。
最後に幸福になればいいんです。途中には、いっぱい、いろんなことがある。当たり前です。子どもに問題がある。安心できない。まだ死ぬわけにはいかない —- だから頑張れるんです。煩悩即菩提です。
「信心しているくせに」とか「幹部のくせに」とか、言いたい人には言わせておきなさい。言ったほうは、その報いを受けるし、言われたほうは、その分、罪障消滅できるんです。
明るく、伸び伸びと、自分らしく活躍していけばいいのです。それが自体顕照です。自分の生命そのものを光らせていくのです。見栄っ張りは、体にネオンをつけて歩いているようなもだ。そのおかしさが自分ではわからない。それくらい狂ってしまっている。
他人をうらやんで生きるのは爾前の生き方です。「自分はこれで行くんだ」と決めて生きるのが法華経です。虚像ではなく、実像の自分で勝負していくのが信心です。それが「妙荘厳王」の意義なのです。
■ 感激があれば、功徳は大きい

斉藤: この品では、話がまだ続きます。妙荘厳王が仏のもとへ行こうと決意したのを見て、兄弟は王子の位を捨てて、仏道修行に専念したいと申し出ます。「仏に会えること」は、はなはだ難しいからですと。

須田: 「一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」(法華経 p653)という有名な一句も出てきます。
〈大海に住む亀が、千年に一度、海面に浮上する機会に、自分を癒してくれる栴檀の浮き木にめぐりあうこと。しかし、その木には、自分がはまりこむ穴が開いていなければならず、亀は目が片方しか見えないために遠近感がつかめず、間違った方向へ行ってしまう。妙法にめぐりあうことの難しさを譬えている。「松野殿後家尼御前御返事」(御書 p1391、趣意)など。>

名誉会長: この大宇宙には無数の生命がある。地球にも、いな小さな庭ひとつとってみても、そこには数えきれないほどの「生命体」がある。その中で、幸運なことに人間に生まれることができた。また、千年、万年、億万年にもあいがたき御本尊を拝することができた。
しかも今、世界広宣流布のまっただ中に生を受けたのが我々です。どれほど宿縁が深いか。どれほどの使命があるか。仏法に偶然はないのです。まさに「我等宿福深厚にして、仏法に生まれ値えり」(法華経 p653)です。この厳粛な事実を自覚すれば、欣喜雀躍です。歓喜がほとばしり出る。
────────────────────────────────────────
妙荘厳王本事品から
是に於いて二子、父母に白して言さく、
善い哉、父母、願わくは時に、雲雷音宿王華智仏の所に往詣して親覲し
供養したまえ。所以は何ん。仏には値いたてまつることを得難し。優曇
波羅華の如く、又、一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し。而るに我等宿
福深厚にして、仏法に生まれ値えり。(法華経 p653)

そこで、二人の息子は、父母にこう申し上げた。「(弟子として仏に仕えることをお許しいただき)ありがとうごさいます。お父さん、お母さん、私たちのお願いなのですが、私たちの師である雲雷音宿王華智仏のもとにおいでになって、間近で崇め敬ってください。
といいますのも、仏には巡り会うことは難しいからです。(三千年に一度咲くという)優曇波羅華のようであり、また(千年に一度、海上に浮かんで浮木を探す)一眼の亀が自分にぴったり合う孔のあいた浮木に巡りあうようなものです。
それほど難しいものなのですが、私たちは過去世からの福徳が深く厚かったので、この世で、仏法に巡りあえたのです」と。
────────────────────────────────────────
名誉会長: 一日一日を宝として、信心一筋に生きるはずです。その感激があれば、すみやかそのに功徳が出てくる。 その「信心一筋」の決意を兄弟は述べているのです。
使命を自覚しもしないで、漫然と一生を終わるなんて、生ける屍のようなものだ。「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(御書 p970)です。