2014年12月1日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2014年12月 1日(月)19時23分36秒 立正安国論は、主人と客の問答であり、「納得の対話」であることがわかる 最後に客は自ら決意を述べる 日蓮仏法とはつくづく対話の宗教であり、その中でも納得を重要視しているように思える 人は納得したときに喜びが生まれ、自発の心が生じるからです 自発なき宗教など、宗教とは言えない 自発に納得は必要不可欠な存在 さらに現代は「納得の時代」ではないでしょうか 世の中が便利になればなるほど、快適が当たり前になる 納得ができないところに快適さは存在しない そのような時代だからこそ、雑さは通用しないし、人々の心をひきつけることはできない パワープレイが通用するのは昭和までの話 疲弊している組織というのは、そもそも「納得」というものがないのではないか そのような組織は結果が出たとしても、歓喜がない そして何より、人が集まらなくなる 現場の学会員は人が良く、納得できようができなかろうが、すべて自分持ちで頑張ってくれる 悪からしたら、これほど扱いやすい人間はいないでしょう 一人ひとりに話を聞くと、納得できないことや問題点は浮き彫りになる そこが改善されれば、組織は発展するのではないでしょうか だけど何故か誰も手をつけず、目の前の結果ばかりを追う羽目に 問題を見ないフリをするか、先送り 組織の中に納得の対話が存在しない それが今の日本の創価学会の現状ではないでしょうか その象徴が今回の会則改正のような気がします Tweet