投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 9日(月)12時39分23秒   通報
■ 旧い「しきたり」と「進歩」の相克

遠藤: はるか昔、妙荘厳王という王がいました。后の名前は浄徳夫人。二人の王子は浄蔵と浄眼。三人とも「浄」の字がついています。
三人は、雲雷音宿王華智如来という仏が説いた正法を信仰しました。しかし、家族のなかで、父の王だけが、バラモンの教えに執着する「邪見の人」でした。

斉藤: バラモン教というのは、その当時、すでに社会の体制となっていた「古い教え」と考えられます。
これに対し、仏法は、仏が出現して説いたばかりの「新しい教え」です。

名誉会長: 父親というものは、保守的なものです(笑い)。
青年には進取の息吹がある。「正しいものは正しい」と、素直に真理を求めていく。しかし、おやじのほうは、「正しかろうが間違っていようが、これが昔からのしきたりだ!」となりやすい(笑い)。新旧の世代の問題でもある。

須田: 「子どもや女房の言うことなんか、聞いてたまるか」と。“沽券にかかわる”と、意地を張ってしまう。

遠藤: 案外、気がちっちゃいものです。自分も男だから、よくわかります(笑い)。

名誉会長: 学会でも、ほとんどが、まず「母と子」が信心して、父は一番後から(笑い) —- 法華経と同じだ。不思議です。

斉藤: 仏教が広まったころのインド社会では、基本はバラモン教的な「家父長制」でした。父親が家族全員に対して支配権をもっていたわけです。そういうなかで、新しい仏法の教えに、青年や婦人が、どんどん引きつけられていった。
多くの家庭で“家庭争議”がもち上がったものと思われます。実際、それをうかがわせる仏典も残っています。
この妙荘厳王品にも、そういう背景があったのではないでしょうか。

名誉会長: 新旧の思想の衝突だね。家庭で波が起きるからこそ、その思想は本物だとも言える。青年の頭のなかだけの観念的なものであったり、気休めや、一時の流行であったりしたら、生活の場である家庭には「新旧の対立」は、あまり起こらない。

遠藤: たしかに、「お地蔵さんを拝みに行きます」と言って、大問題になることはありません(笑い)。

須田: むしろ「信心深い、珍しい青年だ」と、ほめられるかもしれません(笑い)。

斉藤: しかし、現実を根底から変えゆく、生きた、革命的な宗教は、どうしても旧いものから反対されてしまいます。本物である証拠です。

名誉会長: もちろん非常識で、反社会的な運動に反対するのは当然です。そうではなく、一家の幸福のため、社会の幸福のために、道理をもって行動しても、何らかの波乱が起きる。これが「新時代を創る波」の宿命です。そして、一つ一つの家庭において、この対立の小さな波を乗り越えて、「一家和楽」を確立しきっていってこそ、社会の変革も磐石なものになる。
広宣流布という「社会革命」は、一つ一つの「家庭革命」という巌の上に、盤石に建設されていく。

斉藤: 妙荘厳王品は「息子が父を教化する」というストーリーです。これは当時の人々にとっては、画期的なものだったと思います。
中村元博士は、「従来のバラモン教の家父長制的な『家父長に対する一方的な絶対服従』の観念が、仏典では排除されている」と指摘しています。

名誉会長: 仏法では、家族のだれであれ、「すべて個人として平等に尊厳」と見る。非常に進歩的です。だからこそ、「先祖の宗教に従え」といった「家」中心の思想とは相いれない面がある。

須田: 仏法の考え方は、近代の人権思想と共通しています。人権思想の結晶である日本国憲法でも、個人の「信教の自由」を完璧に保障しています。

名誉会長: その意味では、「先祖の宗教」等と「仏法」がぶつかっているのではなく、「(個人の人権を認めない)旧いしきたり」と「人権」とがぶつかっている —- それが実相かもしれない。ちょっと難しい表現になるが。

遠藤: 自分の信仰を貫いていくのは「人権闘争」なんですね。