投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 8日(日)18時55分32秒   通報
■ 万物は歌うあなたの応援歌を!

名誉会長: 妙法は、宇宙の根源の音律でもある。そもそも宇宙全体が、巨大なオーケストラです。合唱団です。
ユゴーは歌った。
「万物が話をする、吹きすぎる風も」「草の芽も、花も、種も、土も、水もが」「万物は話しかけている、無限の中で、何者かに何かを。ある考えがこめられているのだ、森羅万象のあげる壮大なざわめきには」
「万物はうめく、おまえのように。万物はうたう、私のように。
万物は話をしているのだ。そして、人間よ、おまえは知っているか?
なぜ万物が話すのかを。よく聞け。風、波、炎、木々、葦、巌、こうしたものすべてが生ある存在だからだ!
万物は魂に満ちているのだ」
「星から虫けらにいたるまで、広大無辺な宇宙は、おたがいの言葉に耳を傾けている」 —- 。<辻昶・稲垣直樹訳「闇の口の語ったこと」『ユゴー詩集』所収、潮出版社>
詩人の直観は、実は近年の科学でも裏づけられている。
くわしくは、これまで論じたこともあるので略すが、従来の「もの言わぬ物質の集まり」と見るような宇宙観ではなく、ユゴーが言ったように「天空の竪琴」が鳴り響き、「万物が声を発する」にぎやかな宇宙観へと変化してきたのです。
素粒子・原子・分子などの「ミクロ(極小)の世界」から、惑星・銀河系などの「マクロ(極大)の世界」まで、音楽的とも言うべき法則にのっとって、振動し、声を発しているのです。
〈第一回SGI世界青年部幹部会(1991年7月10日)でのスピーチ(『今日より明日へ』第96集所収)などに論じられている>

斉藤: 大聖人は「所詮妙法陀羅尼の真言なれば十界の語言・音声皆陀羅尼なり(中略)陀羅尼とは南無妙法蓮華経の用なり」(御書 p802)と言われています。
意味は、「所詮、妙法の陀羅尼の真言であるから、仏界から地獄界まで十法界のありとあらゆる語言・音声は、すべて(法華経の行者を守る)陀羅尼である(中略)陀羅尼とは南無妙法蓮華経の一分の働きである(実体は妙法である)」ということになるでしょうか。

名誉会長: 万物が音声を発している。それはすべて、地獄界から仏界の音声まで、ことごとく妙法の行者への「応援歌」であり、必ず守護しますと全宇宙が誓っているのです。

須田: すごいことですね。

遠藤: 「妙法陀羅尼の真言」と言われていますが、「真言陀羅尼」という言葉もあります。もともと発生の違う「真言」と「陀羅尼」が、だんだん習合して、ひとつになったんてすね。

名誉会長: そのうえで、真言は「短い呪文」、陀羅尼は「長い呪文」のような立て分けがあったようだね。

斉藤: 真言 —- 仏の真実の言葉。それはじつは「南無妙法蓮華経」しかありません。また陀羅尼品で、二聖・二天・十羅刹女が唱える五つの陀羅尼(五番神呪)も、じつは「妙法の五字」のことであり、さらに「五番神呪とは我等が一身なり」(御書 p778)とも仰せです。
■ 一人立つ「信心」に諸天の守りが

名誉会長: 大宇宙も「妙法の五字」の当体です。我が身、小字宙も「妙法の五字」の当体です。
陀羅尼品で説く「守護の陀羅尼」も、その実体は「妙法の五字」です。ゆえに、全宇宙が妙法の行者を守りに守るのであり、そのためには「我等が一身」の「妙法五字」が生き生きと躍動しているか否かで決まる。
「信心」が燃えていれば、全宇宙がその人を守る。「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」(妙楽の言葉)。
大聖人が繰り返し、引いておられる一句です。「信心の強さによって、諸天が守る強さが決まる」と。
信心している人間が「大将軍」になれば、その家来である諸天善神は、元気いっぱいに働く。将軍が —- 信心が弱ければ、家来は働きません。「つるぎなんども・すすまぎる人のためには用る事なし」(御書 p1124)です。
諸天善神は、広宣流布に「一番戦っている人」を、「一番大切に」守るのです。

遠藤: 諸天に頼ったり、すがったりするのではなく、自分が諸天を動かしていくということですね。

名誉会長: そうでなければ、弱々しい惰弱な人間をつくってしまう。それでは何のための信仰か。「強き信心」とは、一人立つ精神です。
大聖人が「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書 p232)と言われた。諸天の加護などいらない、命をも捨てようという、その信心にこそ、厳然と善天の加護があるのです。
広宣流布のためなら、何もいらない。その信心に立てば、一切が必ず開けます。仏法は勝負です。勝たねば無意味です。
■ 豁然と「仏の力」がわく

名誉会長: ともあれ、「広宣流布のために」学会を守るのか、「自分のために」学会を利用するのか。根本的な違いがある。本当に、広布のために立ち上がれば、どれほどの力が出るか、どれほどの智慧と慈愛と生命力が出るか、どれほど諸天が動きに動くか。
私が入信して、ちょうど三年目だった。戸田先生の会社が業務停止になってしまった。<昭和25年(1950年)8月22日。入信は昭和22年(1947年)8月24日>
刑事事件になることだけは免れたものの、当時の金で数千万の借金が残った。今で言えば数十億でしょう。しかし私は、働いて、働いて、全部、返しました。
戸田先生のお酒代もなかった。私は自分のオーバーも質に入れて、先生にお酒を買ってさしあげた。半年間、一銭の給料も出なかった。靴もペチャンコ。ちゃんとした服だってない。体もひどかった。

しかし、先生をお守りするためなら、たとえ餓鬼道に苦しもうと、地獄界に苦しもうと、かまわない。それで何の悔いもないと決意していた。戸田先生を守ることが、広宣流布を守ることだったからです。
先輩のなかには、卑怯にも、戸田先生が一番大変な時に逃げてしまった人間もいた。いざという時に、「自分中心」か「師匠中心」か、わかってしまう。なかんずく増上慢の人間は、自分を中心に師匠を見ている。高い山を下から見ているようなもので、頂上のことがわかるわけがない。それをわかったつもりでいる。
大聖人は「日蓮が弟子等の中に・なかなか法門しりたりげに候人人は・あしく候げに候」(御書 p1546)と仰せだ。
中途半端に、仏法を知ったかぶりしているような増上慢が一番、危ないのです。そういう慢心があれば、いざという時に自分だけ嵐を避けて、第三者のような傍観者的態度になったり、いい子になろうとする。自分が傷つかないように、要領よく振るまう。そうやって、自分が苦労しないから、師匠や学会の恩もわからない。
本当に謙虚な気持ちで、「広宣流布のために、わが身を捧げます」という信心があれば、豁然と、力がわいてくるのです。私は、広布のすべての戦いでも、いつも「日本一」の結果を出してきた。「世界」に妙法を弘めました。不可能を可能にしてきました。ならば、私の後に続く青年が、何で、力が出ないわけがあろうか。
当時も、私より先輩の幹部は、たくさんいた。私は、ずっと後輩です。最高幹部でもなかった。しかし立場ではない。格好ではない。役職と信心は別です。役職が尊いのではない。信心が尊いのです。青年部の幹部会で「全員が会長の自覚で」と語ったのは、その意味です。
一人立って、「私が必ず、広宣流布をいたします」と誓願の題目をあげるのです。御本尊に「阿修羅のごとく戦わせてください」と祈るのです。それで、力が出ないわけがない。勝利できないわけがない。
たとえ今、どんな苦境にあろうとも、「広宣流布のために」本気で立ち上がった人を、諸天が守らないわけがない。その信心の大確信の「炎」を教えているのが「陀羅尼品」なのです。