2015年11月7日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 7日(土)18時56分10秒 通報 ■ 「師弟一体」の一書 須田: 戸田先生が牧口先生をお守りしたのも、それはすごい気迫であったとうかがっています。あの『創価教育学体系』を発刊された時も、原稿の整理から出版まで、戸田先生が一人で奔走されたんですね。 名誉会長: そうです。だから、どの巻の奥付にも「発行兼印刷者」として、戸田先生のお名前が残っている。 もともと「創価」という名前も、牧口先生と戸田先生との語らいのなかから生まれたものです。名前を付けられたのは戸田先生です。これは有名な話だ。 須田: はい。牧口先生と戸田先生が、二人で火鉢を かこんで、夜の十二時まで語りあった「ある日」のことです。昭和4年(1929年)の頃のようです。場所は戸田先生のお宅です。 牧口先生は戸田先生に言います。「戸田君、小学校長として教育学説を発表した人は、いまだ一人もいない。わたくしは白金小学校長を退職させられるのを、自分のために困るのではない。小学校長としての現職のまま、この教育学説を、今後の学校長に残してやりたいのだ」。 戸田先生は、「よし、先生、やりましょう」と。 「戸田君、金がかかるよ」 「わたくしには、たくさんはありませんけれども、一万九千円のものは、ぜんぶ投げ出しましょう」 そして、戸田先生は牧口先生に尋ねます。「先生の教育学は、何が目的ですか」。 「価値を創造することだ」 「では先生、創価教育、と決めましょう」 名前は、一分で決まったといいます。 名誉会長: これが「創価学会」の「創価」です。 今、混迷する世界で、人類の希望となっている名称です。価値を創造する。美と利と善を創り出す。深い深い哲学と人格のある名前です。 お二人の人格が反映した名前です。 ただ、名称が決まったはいいが、それからが長い道のりだった。実際に資金を用意するというのは大変なことだ。 須田: この時に、戸田先生が考え出したのが模擬試験の開催でした。その頃は、中学進学で「試験地獄」という言葉が一般にも言われるようになった頃です。 自分の実力と試験の水準が分からないことが、受験の苦しみを更に大きくしていたようです。そうした時に、戸田先生は、「東京府綜合模擬試験」いう名称で、公開の模擬試験を開催したのです。 そして、採点した答案を返し、受験生に自分の実力と、どこらへんの学校を志望したらいいかという目安を教えたようです。 最初は五百人ぐらいの規模から一会場で始まりましたが、数年したら、五会場ぐらいで約三千人の生徒が集まるようになったそうです。 戸田先生は、こうした尽力で『創価教育学体系』の出版費用を作っていかれたのです。 名誉会長: あと、『推理式指導算術』を書いて、ベストセラーにし、その印税を、牧口先生のために使ったのだね。 さて、名称も決まった。資金もなんとか工面した。それでもまだ本にはならなかった。それは、牧口先生が多忙のため、原稿用紙にまとめる時間がなかったからです。 牧口先生は、常に思索をメモにし、ホゴ紙の裏に書きとめておられた。そこには深い思想の結晶があるのだが、それをまとめる時間が思うようにとれなかった。それも戸田先生が「牧口先生、わたくしが、やりましょう」と申し上げた。 ただ、牧口先生は、そこまで戸田先生に迷惑をかけてはと躊躇された。一口にメモの整理というが、大変な作業です。メモだって、ばらばらの状態です。はたして、できるであろうかと —- 。 しかし、戸田先生は言いました。 「先生、戸田が読んでわからないものを出版して、先生はだれのために出版するのです。先生は、世界の大学者に読ませるのですか。もし、戸田が読んでわかるものなら、わたくしが書けます」 戸田先生は、メモで重複するものはハサミで切って除き、八畳の部屋いっぱいに、一切れ一切れ並べたそうです。そうすると、そのまま一巻の本になる。 牧口先生の構想も緻密であれば、それを追いかけた戸田先生の執念も大変なものであった。こうして、三巻まで戸田先生が整理し、四巻まで出版したのです。 斉藤: 『創価教育学体系』は成り立ちからして、師弟一体の結晶だったのですね。感動します。 名誉会長: あの豪放磊落な戸田先生が、牧口先生のこと語るときは、本当に厳粛な雰囲気があった。 戸田先生は亡くなる時まで、牧口先生のことを語っておられた。 師を守る、という厳たる一念にあふれていた。まさに「天下第一の法華経奉公なり」の精神そのものでした。 Tweet