投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 5日(木)09時02分19秒   通報
■ 「宗教なき政治は『死体』」 —- ガンジー

須田: 法華経は「社会に向かっていく」経なんですね。

名誉会長: 「向かっていく」のです。宗教という根源的次元から、社会を常に浄化し、リフレッシュし、蘇生させていく。
宗教と政治についても、ガンジーは「宗教なき政治は『死体』のようなものである!」「宗教の欠如した政治は、国家の首を吊るロープであります」(国を死滅させる)と言った。〈ハリーバーウ・ウパッデャイ著『バープー物語』講談社出版サービスセンター>

斉藤: その通りだと思います。

名誉会長: 福沢諭吉は、日本の宗教は「政府の奴隷」と言ったが、ガンジーは反対に、宗教的精神によって政治を道徳的な慈愛あふれるものに変えよと言っているのです。
日本でも聖徳太子の十七条憲法には「篤く三宝を敬へ」とある。政治的権威も、普遍的な真理に従っていくべきだという思想があった。
宗教の中には、権力に協力し、「権力の奴隷」になる宗教がある。また「政治とは一切、かかわらない」と閉じこもる宗教もある。これもまた消極的に、権力の悪を助長し、野放しにすることになる。
「権力と一体化して権力者を助ける」のでもなく、「政治から身を引くことによって権力者を助ける」のでもない。第三の道。
それが日蓮大聖人の「立正安国」です。正法という“永遠の真理”の側から、現実へ常に「向かっていく」「かかわっていく」「変革していく」。これこそが、権力の奴隷にならない唯一の宗教の道なのです。だからこそ、この道には弾圧がある。難がある。だから本物なのです。
■ 「経済にも倫理を」 —- アマーティア・セン氏

斉藤: 観音品ということで「現世利益」が話題になったわけですが、“現実生活上の価値”を否定する観念的な宗教観では、社会へ脈動はありません。かといって、安易な「ご利益信心」もまた、民衆の内面を開拓することはなく、「わが身を犠牲にしてでも、社会を変革していく」という力を与えることはできません。
両者は、両極端のようでいて、ともに権力者にとって都合のよい宗教になっていると思います。

名誉会長: 日本では、僧侶だけが「権力の奴隷」になってきたのではない。ほとんどの知識階層も、財界人も、民衆も、同じであった。
本来は、権力者・指導者は「民衆の手足」です。民衆の手段です。民衆の公僕です。僕です。それが反対になっている。

遠藤: 口では「公僕」といっても、その「公」とは「民衆」のことではなく、「国家」とか「現体制」のことになってしまっている。民衆に仕えるのではなく、体制に仕えるのが「公僕」だという恐るべき錯覚です。

須田: やはり「国家は手段であり、国民の幸福こそ目的なのだ」という民主主義の基本を、徹底的に、日本人の腹の底に叩きこまなければ、何も変わりませんね。

名誉会長: 目に見えない精神的権威(宗教)をもたない人間は、目に見える権威(体制)に従いやすいものです。
「社会へ向かっていく」「脈動していく」という創価の仏法の舞台は、政治だけではない。三十三身とあるように、社会のすべての領域にわたる。
たとえば経済もそうです。
ガンジーは「正義の経済学」を論じた。「拝金主義を教え込み、強者が弱者の犠牲の上に富を増やすことを容易にする経済学は、誤った、荒涼とした科学である。それは死を意味する。これに対し、真の経済学は、社会的正義を象徴し、弱者を等しく含む万人の幸福を促進する」(前掲『ガンディー 私にとっての宗教』)
「拝金主義」は強者を傲慢にし、弱者を卑屈にし、両者の魂をからっぽにする。
貧しき人々をはじめとする「万人の幸福」をどうするか。そこに智慧をしぼるのが経済学の真髄です。「正義の経済学」です。「経世済民(世を治め、民を済う)」という「経済」の本義にかなう道です.

斉藤: 池田先生とともに今回、デリー大学の名誉博士になった方に、アマーティア・セン氏(英国ケンブリッジ大学教授)がいます。(1998年12月13日)。
教授も「正義の経済学」を提唱しています。