2015年11月4日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 4日(水)18時18分11秒 通報 ■ 国家主義の“毒”を見破れ 斉藤: “毒”というと、思い出すのは、ユダヤ人への迫害の歴史を探求した学者の言葉です。 どうして文明国ドイツで、ヒトラーのような人間が首相になれたのか?どうして「ユダヤ人こそ一切の悪や不幸の根源で、迫害するのが当然」などという荒唐無稽な思想に人々が染まってしまったのか?それは「反ユダヤ主義の毒を少しずつ服用させられていたおかげで、ヒトラーという致死性薬物にまで免疫になっていた、ということなのだろうか」「何世代もつみ重なった激しいユダヤ人排斥主義の効果のせいで、彼らの倫理感覚、少なくともユダヤ人に関する倫理感覚が退化してしまっていたからなのだろうか」(ルーシ・S・ダビドピッチ著『ユダヤ人はなぜ殺されたか』サイマル出版会) “少しずつ毒に慣れさせていく”というお恐ろしさを強く感じます。 名誉会長: 日本も同じです。人権感覚がますます狂ってきている。民衆を国家の犠牲にして恥じない国家主義が強まっている。危険です。 だから我々が立ち上がる以外にない。 遠藤: 日本国憲法の根底には、いわば「ソフト・パワーで平和を創造していこう」という理想があると思うんですが、それが踏みにじられようとしています。 須田: 侵略戦争の正当化も、すごい勢いで進められていますね。特に、若い世代に対して影響力の強いメディアでも、それが顕著で、危険な限りです。 斉藤: その一方、“抵抗の精神”がなくなり、いよいよ「長いものには巻かれよ」という雰囲気になっている。マスコミもそうです。現状追随の卑劣な国民性が、つくづく、なさけなくなります。 ■ 日本の宗教は「権力の奴隷」 名誉会長: 日本人に「権力に抵抗する精神」が弱い根本は、宗教が骨抜きにされてきたからです。これは福沢諭吉が明快に論じている。『文明論之概略』です。遠藤君は、慶応(大学院)だったね。 遠藤: はい。「僧侶は政府の奴隷」なりという強烈な言葉を覚えています。 名誉会長: 彼は「宗教は人間の心の内部で働くものであるから、最も自由、最も独立してあるべきで、微塵も他から制御されず、微塵も他の力に頼らないで、社会に存在すべきはずであるのに、我が日本においてはそうではない」と嘆いている。(現代語訳) 仏教も、はじめから権力者の庇護を頼み、権力者にすり寄り、権力の余光を借りようとし、はなはだしいのは政府から爵位(貴族の階級)をもらって喜んでいる僧侶がいる、と。寺がいっぱい建って、仏教が栄えているように見えても、それは「権力の威光」を借りたものであって、独立した「宗教の威力」によるものではない、と。 ──────────────────────────────────────── 「御義口伝」から 廿八品に一文充の大事 普門品 慈眼オモチテ衆生ヲ視給ウ福聚ノ海無量ナリ 此の文は法界の依正妙法なる故に平等一子の慈悲なり依正福智共に無量なり所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり云云。(御書 p792) 観世青菩薩普門品には「慈眼をもって衆生を視る 福聚の海無量なり」(法華経 p663)とある<「福聚の海」とは、福智すなわち福徳と智慧のことである>。 この文は、この宇宙の依報(国土・環境)も正報(十界の衆生)もすべてが妙法の当体であるので、観世音菩薩は、すべての衆生か等しく仏子であるとして、大慈悲をそそぐことを示している。したがって生命には依報・正報にわたり、福徳も智慧もともに無量に具わるのである。南無妙法蓮華経は、この無量の福徳と智慧の二つを具えている。 ──────────────────────────────────────── 名誉会長: 近年(明治五年)は、政府が僧侶の肉食妻帯を許した。これはつまり“宗旨を守って肉食せず妻帯しなかった”のではなく、“政府が禁じていたから、しなかった” —- 実際は陰で相当していたわけだが —- ということであろう。これでは「僧侶が政府の奴隷であるだけでなく、日本国中、すでに宗教はないと言ってよい」と、痛烈です。 斉藤: 人間の「心の独立」の支柱となるべき宗教が、こうですから、日本人に“権力と戦う精神”が弱いことも当然です。 名誉会長: だからこそ、私たちの運動が、日本の根本的な文化革命、人間革命、精神革命なのです。日蓮大聖人は、“権力の奴隷” の僧侶たちから総攻撃を受けながら、権力者自身をも「わづかの小島のぬし」(御書 p911) と見おろしておられた。世間は有上道、仏法は無上道。どんな権力者といえども、妙法にはかなわないし、謙虚に正義を求めていくべきだという信念であられた。 先ほど牧口先生の価値論の話が出た。「人を救い、世を救ってこそ宗教だ」という牧口先生の叫びは、まさに日蓮大聖人直結です。 宗教の源泉から、社会へ社会へと精神的水流を送り続けていく。社会とかかわり続けていく運動です。それが観音菩薩の三十三身の精神でもある。 〈観音は、次の三十三身をもって、世を救っていくと説かれている。仏身、辟支仏の身、声聞の身、梵天の身、帝釈の身、自在天の身、大自在天の身、天大将軍の身、毘沙門の身、小王の身、長者の身、居士の身、宰官の身、婆羅門の身、比丘、比丘尼、優婆塞(在家の男性信者)、優婆夷(在家の女性信者)の身、長者、居士、宰官、婆羅門の婦女の身、童男、童女の身、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩喉羅伽、執金剛神(法華経 p627)> 斉藤: 経文に挙げられていない姿も含めて、「あらゆる姿で」ということですね。 名誉会長: だから、どんな立場の人でも、尊敬していかねばならない。その人が仏菩薩の現れかもしれない。仏菩薩の働きをする場合がある。立場や職業や見かけで、人を判断しては絶対にならない。 Tweet