投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 4日(水)12時25分56秒   通報
■ 「前も敵でした。後ろも敵でした」 —- 鄧穎超夫人

名誉会長: 私は毎日、ただ「広宣流布」と、会員の皆さまの「健康」「長寿」「繁栄」「多幸」を、それだけを祈っている。これが私の根本的責任であり、使命であると自覚しています。
責任者というものは、簡単なものではない。(中国の周恩来総理夫人の)鄧頴超さんの言葉は忘れられない。「前も敵でした。後ろも敵でした。毎日、毎日が、そうでした。何十年間、そうでした。私たちは戦いました」と。
創価学会も同じです。すべてが敵だった。政治家も、坊主も、マスコミも、反逆者、全部が連合軍になって、民衆の行進を弾圧し、私を狙い撃ちにしてきた。
ありとあらゆる卑劣な手段を使って。それを一人、戦い、乗り越え、会員を守って私は生きてきた。
来る日も来る日も、一瞬の油断もしなかった。できなかった。そして晴れ晴れと、創価学会を世界的な王者の団体にしました。
ただ御本尊に「広宣流布の希望の道を無限に開かせたまえ」と祈ってきた。幹部も、同じ心であっていただきたい。その「心」がなくなったら官僚主義です。
わが地域の学会員は一人のこらず、絶対に幸福にしてみせる!その祈りで、一生懸命、尽くしていきなさい。自分のエゴなんか、かなぐり捨てなければ、戦いはできない。勝つか負けるか。死ぬか生きるか、それが勝負です。甘く考えたら、とんでもないことになる。
私の母校・富士短期大学(当時は大世学院)の創立者・高田勇道先生は、亡くなる一カ月前に、こう遺言された。「教育とは学生に生命を与えてゆくことである」。
崇高です。教育とは学生に我が生命を捧げることだと決めておられた。学生・生徒を「わが子」と同じように、いな、わが子を後まわしにし、犠牲にしてでも、最大に大切にし、愛し、尽くしていけるか否か。それで、まことの人間教育者か否かが決まる。
広布の指導者も同じです。「広宣流布」をしているのは、この地球では創価学会しかない。唯一の仏意仏勅の団体です。学会の広宣流布の組織が、どれほど尊いか。
広宣流布に進む学会の軌道は、ある意味で「法」です。この法に則って進むことによって、自分の成仏、人間革命がある。「公転」と「自転」の関係てす。
自分中心は、自転だけあって、公転がないようなものだ。いいように見えて、宇宙の軌道から外れ、寂しき生命の孤児になってしまう。自分中心でなく、法が中心でなければならない。「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」です。
■ 広布の行動で自身が開花

名誉会長: わが身は華です。「妙法蓮華経」の当体だ。その蓮華を咲かせるのは、広宣流布の活動しかないのです。
自分が拝んでいるだけで広宣流布をしないのは、「水」だけあって「太陽の光」がないようなものだ。
本当の自分自身の開花はない。広宣流布のために尽くしていけば、必ず、自分が守られる。陣列から離れてはならない。創価学会自体が「安穏城」であり「宝処」なのです。どれだけ皆、守られていることか。
戸田先生が「戸田の命よりも大事」といわれた学会の組織なのです。
もし、広宣流布の組織を軽く見たら、その人自身が梵天帝釈、諸天善神に軽く扱われてしまう。相手にされない。ともかく、どんな有名人よりも、地道に学会活動する無名の同志が宝なのです。

遠藤: 先生が、デリー大学一行との語らいで話されていたアソカ大王のエピソードを思い出します。
ある時、アソカ大王が、仏弟子たちの塔(ストウーパ) を供養して回りました。大王は、舎利弗や目連、迦葉、阿難などの塔には、たくさんの供養をして合掌しました。しかし、薄拘羅という仏弟子の塔には、わずかな供養しかしなかった。
おつきの人間が不思議に思って、大王に尋ねました。「この人も等しく仏弟子であります。どうして差をつけられるのですか?」。
大王は答えました。「彼は、自分自身は一生懸命に修行していたようだが、人のために法を説かず、世間のために貢献しなかったからだ」と。仏法の広宣流布に尽くしたかどうか。人と社会に尽くしたかどうか。それが基準でした。

須田: その話を受けて、アソカ大王の研究者のラナ教授が「知識を自分の中にとどめるだけで、人のために分かち合い、役立てていかないと、知識は、かえって“毒”になる」と言っておられた。印象的な言葉でした。

遠藤: 日本は“毒薬”のニュースが続いていますが —- “慈悲なき社会”の象徴ような気がしますね。

名誉会長: “毒”は、冷酷な地獄の心の象徴です。
地獄界・餓鬼界の人間は、人の幸福を恨み、嫉み、人をも地獄に堕としたくてしかたがない。
反対に、仏界・菩薩界の人間は、人をも幸福にしたくてしかたがない。
創価学会は、自分も幸福になり、人をも幸福にしていく、慈悲の団体です。広宣流布とは、今の社会に一番欠けている、この「慈悲の生命流」を拡大して、潤していく運動なのです。
自分の存在は小さく見えても、何か動けば、波ができる。一波、二波、三波と波が続けば、その「流れ」それ自体が「広宣流布」なのです。
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「御義口伝」から
普門品五箇の大事
第五 三十三身利益の事

御義口伝に云く三十とは三千の法門なり、三身とは三諦の法門なり云云、又云く卅三身とは十界に三身づつ具すれば十界には三十・本の三身を加うれば卅三身なり、所詮三とは三業なり十とは十界なり三とは三毒なり身とは一切衆生の身なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は卅三身の利益なり云云。(御書 p777)

御義口伝では、このように仰せである。
「三十三身」の「三十」とは、一念三千の法門を示し、また「三身」とは空・仮・中・三諦の法門を示している。
また、次のようにも仰せてある。
「卅三身」とは、十界のそれぞれに(法・報・応の)三身か具わっているので、十界の全体では三十身か具わり、それに本の三身、すなわち無始無終の宇宙生命の三身を加えれば三十三身となる。要するに、十界のどの生命にも、三身か本来、具わっている。
結局、三十三身の「三」とは身(行動)・口(発言)意(感情・思考)の三業(三つのふるまい)であり、「十」とは十界であり、「三」とは貪(むさぽり)・瞋(いかり)・癡(おろか)の三毒のことであり、「身」とは一切衆生の身である。今、日蓮とその門下で南無妙法寺華経と唱える者は、凡夫のままで、三十三身の利益を得るのである。
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遠藤: それが無慈悲で残酷な社会の“毒”を浄化する根本だと思います。