投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 4日(水)09時11分31秒   通報
■ 個人と社会、自由と平等の調和

須田: 池田先生はインドのデリー大学の「名誉文学博士」になられましたが、来日されたメータ副総長も「中道」を強調されていましたね。

名誉会長: そうだね。まれにみる大哲学者です。
政治学の大家の副総長は、こう言われていた。
「近代の西洋の伝統的な考え方は、『個人主義』と『集団主義』の間を揺れ動いてきました。その結果、不幸にも、もたらされたのは『自我の喪失』でした。
ガンジーをはじめインドの思想家は、この二つの“主義”に対して、古代からの伝統に立ち返ることで応えようとしました。それは、ものごとを相互の関係性でとらえる『法(ダルマ)』の思想、そして超越した究極の理想である『涅槃』の思想です。
牧口氏、戸田氏が強調したのも、一人一人が社会との関わりの中で価値を創造することです」と。
価値創造の思想から見れば、「個人の幸福」と「社会の繁栄」は決して対立するものではない。自転と公転のような関係です。
社会に尽くすことによって、個人が幸福になり、社会は「一人の人」の幸福を目的としなければならない。

須田: “一人は皆のために、皆は一人のために”ですね。

名誉会長: メータ副総長は言われた。「宇宙は、有機的な関係で結ばれている。すなわち、人間と自然、人間と人間、そして人間とコスモス(宇宙)です。
これは『部分』と『全体』という関係ではない。人間も自然も、宇宙も、それ自体が『全体』であり、それ自体が『目的』をもつ『かけがえのないもの』なのです」。
深い生命観です。この「法(ダルマ)」という正しき軌道に則って進むのが「中道」です。

遠藤: “まん中の道”という意味ではありませんね。

名誉会長: “道に中(あた)る”と読む。命中とか、的中の中です。正しき「人道」に即して離れない —- いつも「道に中っている」「正道に適っている」、それが中道です。人間主義のことです。
副総長は、19世紀は「自由を追求した世紀」であり、二十世紀は「平等を追求した世紀」であった。二十一世紀は「正義を追求する世紀」でなければならないと言われた。自由と平等、個人主義、その両方を調和させるのが「正義」です。「法」です。「中道」です。「第三文明」です。

遠藤: 明快な二十一世紀論ですね。

名誉会長: 先ほどの「祈り」の話に戻ると、生活即信心、信心即努力という「正道」を、徹底的に進むのが「中道」です。観念的な“気休め信仰”でもなければ、安易な“手品の信仰”でもない。

斉藤: 祈りが叶うまで「祈り続ける」「努力し続ける」。その結果、最後は所願満足になっていく —- 。その戦いですね。

名誉会長: 祈りが叶う叶わないは、信心による。また、それぞれの宿業的な根の深さも違うし、時間がかかる場合もある。いろんな意味がある場合がある。しかし「祈り」というエンジンによって、必ず、祈った瞬間から「良い方向へ」「良い方向へ」と変化が始まっていることは間違いない。

須田: 「自分中心の祈り」でもよいのでしようか。

名誉会長: それは仕方がない。自分中心が凡夫の常です。凡夫のありのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばよい。無理に高尚な格好をしても、それは、「うその自分」です。うそは御本尊に通じない。
自分が一番悩んでいること、一番願っていることを唱題に託していけば、自然のうちに境涯が開けていく。だんだんと、自分のことだけでなく、友の幸せのこと、広宣流布のことを祈れる自分になってくる。また、そういう大きい祈りに挑戦することも大事でしょう。全部、自分の自由です