投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 3日(火)17時31分12秒   通報
■ 「祈りに応えない宗教は無益」 —- 牧口先生

遠藤: よく「現世利益を説く宗教は低級だ」という批判がありますが、こういう安易な「おすがり信仰」は、たしかに否定されるべきだと思います。

須田: いわゆる「呪術」的な祈りですね。神秘的な力を動かして、利己的な願いを叶えようという —- 。

斉藤: 一方には、「宗教は内面の幸福だけを目指している」という宗教観があり、一方には「呪術的な現世利益を説く宗教があります。どちらも、色心不二という人間の現実の「生活」から遊離している。その点で共通するのではないでしようか。

遠藤: 一方は観念的であり、一方は荒唐無稽です。

須田: 一方は無慈悲であり、一方は智慧がないとも言えると思います。

名誉会長: 真実の宗教は、そのどちらでもない。「生活」に即して離れず、「生活」を向上させる根本の法則を示している。牧口先生は、これを「価値創造」と呼んだ。「祈りに応じて価値を与えない宗教は“無益”な宗教だ」と言われている。<「幸福生活の祈願に応ずる価値の供給によってのみ宗教の存在があり、無益の宗教は人の信を繋ぐに足らぬものである」『牧口常三郎全集』第九巻>
これは当時の著名な科学者の宗教論に対する反論の中の言葉です。この学者は“自然の驚異的な摂理には神を感じる”が、自然科学によって知ることができない未知のものは未知としていくべきであり、“自分の利益のために神に祈ったりするのは、おかしい”という主張であった。

須田: 典型的な「現世利益批判」ですね。

名誉会長: それに対して、牧口先生は“人間生活の価値創造に関わらない宗教は、無益の宗教である”という立場です。
「生活」を無視することは「人間」を無視することです。驚異的なのは自然だけではない。人間の生命、生活、人生も驚異であり、いかなる状況でも価値を創造して勝利していける人間の生命力の驚異を探求すべきであると考えておられた。
先生は、「自然科学」だけあっても、人間をどう幸福にするかという「価値科学」がなければいけないとも言われた。卓見です。現代文明の根本的欠陥を突いている。

斉藤: 牧口先生は、外国の有名な哲学者が、宗教だけの「聖の価値」を主張したことにも反対しておられますね。宗教のための宗教では意味がない、と。
「聖」の価値とか、「安心立命の境地」とか言っても、それは個人的には自分の生命を伸ばす「利の価値」であり、社会的には「道徳的価値(善の価値)」である。「人を救い、世を救うことを除いて、宗教の社会的存立の意義があろうか。人を救うことは利的価値ではないか。世を救うことは道徳的価値ではないか」(『牧口常三郎全集』第五巻、現代かなづかい)と。

名誉会長: 要するに、「人を救い、世を救う」という現実の闘争を避けて、そのほかに「聖」などという別次元の高尚な価値があるかのようにいうのは偽善です。
人を救い、世を救う —- 広宣流布です。現実と四つに組んだ、この大闘争こそが価値創造であり、真の宗教です。「聖」というなら、この大闘争のまっただなかにしか「聖」なるものはない。「平和」だって「現世の利益」ではないですか。
観世音菩薩の「世」の一字には、深い意味がある。現実の「世」から離れないのです。「世」とは社会です。「社会の幸福」への挑戦なのです。
「世」と対比すれば、「音」とは、個々の生命の叫びであり、「個人の幸福」への希求です。“社会の繁栄”と“個人の幸福”を一致させていこうというのが観世音であり、法華経なのです。

遠藤: たしかに、個人の幸福だけに偏ると利己主義になり、社会の要請だけに偏ると全体主義や国家主義に近づきます。その調和は実に難しい。