投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 3日(火)14時52分59秒   通報
■ 祈っていると雑念がわくが

遠藤: 「祈り」ということで、「祈っていても、雑念がわいてきて困るのですが」という質問があるのですが。

名誉会長: 雑念がわいたってかまわない。人間だから当然でしよう。そのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばいいんです。
雑念だって、一念三千の生命の働き以外のものではない。ゆえに、そういう雑念でさえも、題目によって、功徳に変わるのです。
祈りかたに 「こうあらねばならない」という形式はない。無作でいい。かしこばって、こちこちになって拝んだって、心の動きは、どうしようもない。信心が強くなれば、自然のうちに一念が定まってきます。
また、祈っていて浮かびあがってくる雑念とか思いとかは、その時の自分が気になっている課題なのだから、雑念などと言わないで、何でも、きちっと祈りに変えたほうがいいでしよう。
大きなことだけを祈るのではなく、小さな小さなことも、ひとつひとつ、きちっと祈りを込めて勝ちとり、固めていくことです。もちろん神経質になる必要はない。ともかく、ありのままの姿で、題目を真剣に唱えていくことだ。

遠藤: もうひとつ、「願いは、いっぺんに、たくさんあってもいいのでしょうか。一つずつ解決していったほうがいいのでしようか」という問いもあります。

名誉会長: 祈りは、いくら多くてもいい。たくさん願いがある人は、その分、真剣に、たくさんやればいいのです。たくさん買い物をしたければ、たくさんお金がいる。それだけのことです。また、それが道理です。

斉藤: そういう質問は、何か「御本尊が祈りを聞きとどけてくれて、超能力で解決してくれる」というような錯覚があるのではないでしょうか。

名誉会長: だれが願いを叶えるのか。自分です。自分の信心と努力です。他のだれでもない。自分の買い物に、自分のお金を使うのと同じです。自分のお金がなければならない。自分の信心の実践が「お金」です。
■ 「祈りがなかなか叶わない」

須田: 「祈りが、なかなか叶わない」と悩んでいる人もいますが —- 。

名誉会長: 「祈りとして叶わざるなし」の信心です。まず、そう決めることです。そのうえで、ある時点だけを見れば、祈りが叶う場合も、叶わない場合もある。しかし、それでも祈りを「続ければ」最後には必ず一番いい方向に行く。あとから振り返ってみると、それがわかるものです。
何より、そうやって苦労することで自分が強くなっている。祈って、何でもすぐに、パッと叶ったのでは、人間が堕落してしまう。
努力も苦しみもない安易な人生になってしまう。薄っペらな人間ができます。それでは何のための信仰か。次々と、いろんな出来事がある。いろんな悩みが出てくる。その連続です、人生は。いろんなことがあるから、人生は充実するし、楽しい。成長もできる。広々とした、強い境涯が開ける。

遠藤: たしかに、全員が「宝くじに当たりたい」と祈っても、叶うわけがありません。
名誉会長: 何でも祈って、すぐに叶ったのでは「手品」です。「道理」に反する。お米も入れないで、炊飯器のスイツチを入れて、ご飯ができるわけがない。仏法は道理であり、信心即生活の正しい「軌道」を教えている。「現実」を無視した信仰はない。現実のうえで努力もしないで、安易に願いが叶うわけがない。