投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 2日(月)22時17分11秒   通報
■ 現世利益も「世界宗教の条件」

遠藤: かつて先生がスピーチで紹介してくださいましたが、南山大学のヤン・ヴァン・プラフト教授は「世界宗教の条件」として、こう論じています。
「人間社会に奉仕する宗教」「社会的力を有する宗教であり、世界平和に貢献できる一大勢力になりうるもの」「人間主義に貫かれた宗教」 そして「民衆の現世利益的な期待に対応できる宗教」と。

名誉会長: 現実です、大事なのは。
ガンジー は、こう喝破している。「現実の問題を考慮に入れず、問題の解決に役立たない宗教は、宗教ではない」(『ガンデイー 私にとっての宗教』、新評論刊)と。
民衆が今まさに直面している「現実の問題」「現実の悩み」 —- それに応えられない宗教は、もはや宗教ではない。これが彼の叫びでした。確かに、民衆の宗教的無知につけこんで、子どもだましの「現世利益」を説く宗教が後を絶たないのは事実です。
草創期から、そうした他の宗教と一緒にされて、「創価学会は現世利益の宗教屋である」などと批判されてきた。しかし、この人類最高の精神遺産である法華経がまさに「現世利益」を厳然と説いている。それは、民衆の幸福を実現するうえで、避けて通れない課題だからです。
病に苦しむ人、経済苦に悩む人、家庭不和で人生に絶望している人 —- ありとあらゆる人間の苦悩と戦ってきたのが学会です。それこそが法華経の精神なのです。
苦しんでいる人、貧しき人の最大の味方になってきたのは我々です。その自負が私にはある。
現実に苦しむ人を眼前にして、その人をどう励まし、どう救いの手を差し伸べるのか。その重い課題を避けては、宗教の存在意義はありません。
この点は、ブライアン・ウィルソン博士とも、種々語り合ったが —- 。
<オックスフォード大学名誉教授。国際宗教社会学会初代会長。対談は『社会と宗教』(講談社。聖教文庫)に収録>
■ 「祈り」は人間の崇高な証

斉藤: たとえば、我が子が病気で死にそうになっている。医者に頼るとともに、「子どもを助けてください」と祈らずにはいられません。
宗教をもっていない人でも、何ものかに向かって祈るでしよう。その心は絶対に“低次元”のものではない。人間の本然の叫びです。

須田: そういう思いまで否定したら、あまりにも冷たい。非人間的です。

名誉会長: 祈りは人間しかできない。動物に祈ることはできない。祈りは、人間の人間たる崇高な証です。
古来、偉大な大自然を前にして、人間はその広大さ、無限さを畏敬した。人知では計りしれない大いなる存在を敬い、自然のうちに「祈る」という心が芽ばえたと考えられる。
特に、観音品の七難のように、危急の時には、必死になって「何とか守ってもらいたい」と願った。その切実な思いを凝縮させると「祈り」になる。<七難とは、大火(火難)、漂流(水難)、暴風で船が食人鬼の国に流される(羅刹難)、刀や棒で危害を加えられる(王難)、悪鬼が害を加える(鬼難)、足かせや鎖てつながれる(枷鎖難)、盗賊に襲われる(怨賊難)の七つ>
この「祈り」があって、それに応じて「宗教」が生まれた。

遠藤: 「宗教があって、祈りが生まれた」のではなく、「はじめに祈りありき」だったのですね。

名誉会長: その「祈り」を現実に叶えるには、どうしたらよいのか。それを生命の法則のうえから明快にしたのが仏法です。小宇宙と大宇宙を交流させ、ギアをかみ合わせる秘術を「妙法」として説いた。