投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 2日(月)20時10分16秒   通報
■ 観音信仰とマリア信仰

名誉会長: だから男性にもなれば、女性にもなる。 そのうえで、もともとの女神の特徴をもち続けたことが、観音の人気の秘密でしょう。
ゲーテは「永遠の『女性的なるもの』が、我らを高みに引き上げていく」と言った。(「ファウスト」) 東洋でも西洋でも、人間性は共通していますね。

須田: キリスト教のマリア崇拝と観音信仰は共通している点が多いと思います。

名誉会長: そうだね。マリア信仰も、民衆の身近な願いと結びついている。

須田: 病気の治癒、安楽な出産、臨終の安心など、人生のさまざまな局面での祈りが、マリアに向かって捧げられています。

遠藤: イエス・キリストヘの信仰が、キリスト教の主柱のはずですが、やはり“マリアさま”のほうが親しみやすいんでしようね。

須田: マリアは、絶対的な神の世界と人間の世界をつなぐ「架け橋」のような存在という人もいます。罪深い人間であっても、誠実に祈っていけば、マリアは裁くことなく、一緒になって神に祈ってくれるともされていたようです。

斉藤: 不良の子どもの不始末に、一緒になってお父さんに謝ってくれる(笑い)。そんな優しいお母さんを思い出しますね。

名誉会長: 母は偉大だ。母の懐に抱かれると、子どもは絶対に安心する。父親は、こうはいかない。よけいに泣かせてしまう(笑い)。
宗教学では、マリアも「大地母神」への信仰を反映していると言われているね。ただ深層心理学のユング派の研究によると、「グレート・マザー」には、“産み、養い、包容する”良い面と、“抱きすくめて放さない、子を飲み込んでしまう”悪い面があるとされる。後者は仏教の鬼子母神に通じるかもしれない。永遠の「女性的なるもの」といっても、観世音の面が出るか、鬼子母神の面が出るかで正反対になる。

須田: 信者の側でも、安易な「おすがり信仰」になると、幼児的退行と言わざるを得ません。
あるマリア信仰の研究者は、近世において、マリアの像が、かつてのかよわい少女から、自信と威厳に満ちた大人の女性となっていくとともに、信仰者のほうが少しずつ幼児的退行をし、「雛のように聖母のマントの中に身を寄せ合い、ただロザリオの祈りを唱えて奇跡を待つセンチメンクルな関係にはまっていった」(竹下節子著『聖母マリア』講談社刊)と指摘しています。

名誉会長: 観音とマリア信仰の親近性を劇的に表しているのが、「マリア観音」でしようね。日本の“隠れキリシタン”の人々が、マリア信仰を隠すために、観音と呼んで崇拝したと言われている。
ともあれ、観音信仰もマリア信仰も、聖職者が率先して広めたというよりも、民衆からの自発的な要望が高まって、広まっていったという歴史があるようだ。

斉藤: 法華経に観世音菩薩が採り入れられた背景にも、当時すでに「観音の原形に当たる女神」が広く人気を博していたということがあると思います。

名誉会長: 当時の民衆が大切に信仰していた女神を法華経が積極的に採り入れ、生かしていることは面白い。それ自体が「世音を観ずる」慈悲の現れです。
時代や民衆の「現実」を離れて、仏法はないのです。

斉藤: 観音品が明快に「現世利益」を説くことも、同じ精神だと思います。

名誉会長: 現実は現実です。観念は観念です。人生は「現実」です。ゆえに、仏法の焦点も「現実」です。信心は「現実」を勝つためにある。娑婆即寂光です。「現実」から逃避するのは法華経ではない。「現実」を理想的なものに変革するのが法華経です。仏法は勝負です。
「現世利益」というと、低次元のように聞こえるが、現実の生活を変革できない宗教では、「力がない」と言わざるを得ない。「現世安穏」「後生善処」と言って、今世も未来世も、楽しく人生をエンジョイするための妙法です。現実生活のうえの「価値創造」が法華経の魂なのです。