投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月31日(土)13時11分23秒   通報
■ 「無事安穏」の人生

名誉会長: 全部、「無事安穏」の功徳です。観音品が「息災延命の品」と呼ばれているゆえんです。
戸田先生は、わかりやすく、こうまとめて言われたことがある。
「一、おおいに事業商売をして、金もうけをするときに、災難が起こる。そのとき、御本尊様を頼りまいらせると、その災難をのがれることができる。二、相手がひどい目にあわせてやろうと考えたり、また、大きな損が起こってくるような場合、反対に、相手がひどい目にあうようになったり、損が得になったりする。三、煩悩および病気の苦しみにあうとき、御本尊様を信ずるならば、煩悩も悟りとなり、病魔もこれを冒しきることができない。四、ガケから落ちたり、乗り物の事故にぶつかったりするとき、御本尊様を信じているときは、けがをしないですむ。五、自分の職業の位置から落とされようとしたとき、御本尊様を信じている者は、逆に相手がやめなくてはならなくなったりして、落とされないですむ。六、相手が憎んだり、害を加えたりするときに、信心が強いと、相手の心が変わってしまう。七、(不当に)死刑にならなければならぬような運命も、信心の強き者は死刑にならなくてすむ。このことは刀尋段段壊といって、大聖人様のお示しくださったお姿である。八、(不当に)牢獄へ入らなければならない宿命の者でも、信心の強い者は入らないで、帰されてくる。九、毒薬を飲まされようとしたり、悪口を言われたりすれば、かえって相手が悪口を言ったような目にあったり、毒薬を飲まされたりする。これは還著於本人というのである。十、大嵐のときでも、信心の強い者は、その害を受けなくてすむ」

遠藤: わかりやすいですね。

名誉会長: 「やさしく」言うのが「優しさ」です。
皆の話は、難しくてしかたがない(笑い)。難しく言うことは、だれにでもできます。それでは、大勢の人には、わからない。「世音を観じた」ことにならない。それでは法華経ではありません。
これらは全部、「現世利益」の文証です。
妙法を行じれば、必ずそうなるという御本仏の御約束です。
ただし、これは「顕益」です。いざという時に、ぱっと現れる功徳です。
これに対し、末法は「顕益」ももちろんあるが、「冥益」が中心となる。種子が一年、二年、三年と、歳月とともに大樹になるように、だんだん、だんだん福徳の枝が繁り、花を咲かせ、実をならせるのが「冥益」です。 そうやって生命の大地に根を張った「福徳の大樹」は倒れない。嵐にも、びくともしない。

須田: それが、妙法の「天地雲泥」の利益ということでしようか。

名誉会長: 天地雲泥とは「成仏する」という大利益のことと拝してよい。
成仏について、戸田先生は「絶対的幸福」とも言われ、「大生命力」とも言われた。つまり、先ほどのような顕益の功徳は必ずある。
特に「初信の功徳」といって、入信後、当座の悩みが必ず解決する。それで確信をもって、更に信心が進めば、今度は前と比較にならない大功徳がある。それは「生命力が絶対的に旺盛になる」ということです。

遠藤: 人間革命ですね。

名誉会長: 自分が革命されていく。自分が、たくましく変わっていく。「悩み」に左右され、引きずられていた自分が、「悩み」をにらみつけ、引きずり、悠々と乗り越えていける自分に変わる。
たとえば、生命力が「一」しかない人は、ちょっと何かあると、「二」か「三」 の」悩みでも、あわてふためいてしまう。しかし、そんな」悩みは、生命力「百」になり、「千」になり、「一万」になっていけば、ケシ粒のようなものです。軽々と手の上で転がしながら、楽しんで歩いていける。
戸田先生は言われた。「われわれは、いろいろな条件にしばられている。親子の関係だとか、兄弟だとか、友だちだとか、着物だとか、住居だとか、交際だとか、税金だとかというものに拘束された世界が、われわれの生活である。しかし、偉大な生命力を把持するならば、これらを苦縛とせず、楽しみとすることができる。すなわち、これを解脱というのである」。
■ 「解脱」とは「大生命力」

遠藤: 「解脱」といっても、何も神秘的なものではないんですね!

名誉会長: 悔みの鎖を吹き飛ばす大生命力のことです。大生命力の中には「慈悲」も「智慧」も「福徳」も含まれる。
「限りない明るさ」と「限りない優しさ」の人格です。くめどもつきぬ智慧の生活です。生命力が全身にあふれていれば、この苦しい娑婆世界が、明るく楽しい世界に変わるのです。そこが雲鷲山です。また、そこが補陀落山です。
観音の住んでいるところは「補陀落山」と言われ、古来、各国で「ここがそうだ」という場所が定められてきた。

須田: チベットのポタラ宮殿も、「補陀落」から来たものです。歴代のダライ・ラマは観音の化身とされています。それはそれとして、観音品の元意から言えば、妙法の「限りない生命力」で行動するところ —- それがどこでも補陀落山ですね。
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「御義口伝」から
今末法に入って日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり、所詮観とは円観なり世とは不思議なり音とは仏機なり観とは法界の異名なり既に円観なるが故なり、諸法実相の観世音なれば地獄餓鬼畜生等の界界を不思議世界と知見するなり、音とは諸法実相なれば衆生として実相の仏に非ずと云う事なし、寿量品の時は十界本有と説いて無作の三身なり、観音既に法華経を頂受せり然らば此の経受持の行者は観世音の利益より勝れたり云云。(御書 p776)

今、末法の時代になって、日蓮とその門下が南無妙法蓮華経と唱えることは、観音の利益と比べると、天地雲泥の差かある。
所詮、(天台大師が『法華文句』巻十下で述べているように)「観世音」の「観」とは「円観」(真理を円満に説いた法華経の教えに基づく深いものの見方)のことである。
「世」とは「不思議」ということである。
「音」とは「仏機」(仏となるべき衆生の機根)である。
「観」とは、法界の異名である。というのは、観とは既に(森羅万象を妙法の当体ととらえる)円観にほかならないからである。すなわち、諸法実相(諸方がただちに実相である)と知ることか「観世音」であるので、地獄・餓鬼・畜生等の十界のそれぞれがただちに不可思議な妙法の世界そのものであると知見するのである。
「音」とは(衆生の機根であるが)、諸法がすなわち実相であるので、十界の衆生はいずれも、実相の仏ではないということはない。このことを、寿量品の説法の時には、十界が本有であると説いて、衆生が無作の三身の仏であることを示している。
観音菩薩は、既に法華経を信受している。そうであるから、この法華経を受持する行者は、(観音の功徳の源泉を受持しているのであるから)観世音を信ずる利益よりも勝れた利益を得るのである。
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名誉会長: その「大生命力」こそが、真実の「現世安穏」なのです。また「後生善処」の証明にもなる。
大聖人は「難来るを以て安楽と意得可きなり」(御書 p750)と仰せだ。「現世安穏」とは、どんな試練が押し寄せようとも、敢然とそれと戦い、乗り越え、その前よりも更に威光勢力を増していける「信心」の境涯のことです。

斉藤: 本当に「天地雲泥」の利益です。

名誉会長: こんな素晴らしい境涯があるのに、どういうわけか、皆、ほしがらない(笑い)。小さい、目先の利益で満足してしまう。ふだんは、あんなに欲張りなのに(笑い)。
そして何かちょっと悪口を言われたくらいで御本尊を疑ってしまう。疑いながら祈ったって、お風呂の栓を抜いて水をためようとしているようなものだ。福運は流れていってしまう。
観音品に「念念に疑いを生ずること勿れ」(法華経 p636)とある。大確信の祈りこそが、力強く、全宇宙に轟くのです。
「初信の功徳」は小さな山です。「仏界の大生命力」は大きな山です。「小さな山」から「大きな山」に移る途中には、いったん「谷」を通らなければならない。それが三障四魔であり、さまざまな障害です。
これを越えて、初めて成仏の「大きな山」に登れるのです。