投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月31日(土)09時17分19秒   通報
■ 迹門は「光」本門「音」

須田: では概要を見てみます。
前章の妙音菩薩が「東方」にいたのに対し、古来、観音菩薩は「西方」にいるとされています。また妙音が「声を発する」のに対し、観音は「声を聞く」ほうです。両方でセットになっていると思われます。

名誉会長: 本門では「音声」に関する名前が多い。にぎやかです。妙音、観音のほか、次の陀羅尼品も、声を出すことに深く関わっている。
「威音王仏(不軽品)」とか「雲雷音王仏(妙音品)」とか「雲雷音宿王華智仏(妙荘厳王品)」とか。これに対し、迹門には「光」に関する名前が多いとされている。

斉藤: 「日月燈明仏(序品)」「燃燈仏(同)」「華光如来(譬喩品)」「光明如来(授記品)」「普明如来(五百弟子受記品)」「法明如来(同)」「具足千万光相如来(勧持品)」などでしようか。
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観世音菩薩普門品から
無垢清浄の光あって 慧日諸の闇を破し 能く災いの風火を伏して 普く明らかに世間を照らす 悲体の戒は雷震のごとく 慈意の妙は大雲のごとく 甘露の法雨をソソぎ(樹の木偏がさんずい) 煩悩のホノオ(勹の下に臼が偏、炎がつくり)を滅除す 諍訟して官処を経 軍陣の中に怖畏せんに 彼の観音の力を念ぜば、衆の怨悉く退散せん(法華経 p635)

(観音菩薩は)汚れのない清浄な光をそなえ、その智慧の太陽は諸の闇を破り、よく災の風と火を抑えて、あまねく明らかに世間を照らす。
衆生の苦を悲しむ心を本体とする戒は雷のように響き、慈しみの心の妙は大雲のように衆生を包んで、甘露の法雨を注ぎ、煩悩の炎を消し去る。
争いごとをし、役所の処断を経て、軍隊の陣列の中で恐怖にとらわれているときにも、かの観音の力を念ずれば、多くの敵はすべて退散するであろう。
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名誉会長: 「光」は諸法実相の「真理」を表す。「不変真如の理」です。
「音声」は久遠本仏の使いとしての「行動」を表す。「随縁真如の智」です。
また観音の「西方」とは、観音のルーツが、インドの西方にあたる舌代オリエントのが女神にあることを暗示しているという説もある。それはともかく、序品からずっと説法の座にいた観音菩薩の「由来」を尋ねるところから観音品は始まる。

遠藤: はい。無尽意菩薩が立ち上がって、釈尊に質問します。「観音さまは、どうして『観世音』という名前なのですか」と。
釈尊は答えます。「いかなる衆生であれ、どんな苦悩であれ、この観世音菩薩の名を聞いて、その名を一心に称えれば、観世音菩薩は即座にその音声を観じて、すべての苦しみから解放するであろう」と。
観音の名前を称えただけで救われるという。この「易行(やさしい行)」であるところが、観音信仰の広まった理由の一つと思われます。
■ 「天地雲泥」の大功徳

名誉会長: もちろん、文底から見るならば「観音の名を称える」とは、観音の力の根源である久遠の本仏「南無妙法蓮華経如来」の名前を唱えるということです。唱題行です。
須田: 題目を「一心に」唱えるという意味ですね。

名誉会長: 一心に、「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く」(御書 p1132)祈るのです。
甘えた、観念的な祈りでは、御本尊への本当の感応はな 全生命をもって、ぶつかって、打開の道が開けないわけがない。
日蓮大聖人は「薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり」(御書 p1049)と仰せだ。<「薬王菩薩本事品(第二十三章)以下の六品で得道した者は、寿量品の自我偈の功徳の残りなのである」>
戸田先生は、この御書を引いて、よく「観音品と言っても、寿量品の残りカスだ」と言っておられた。
南無妙法蓮華経が電力源であり、観音の力はそこから電気を分けてもらっているにすぎない。ゆえに大聖人は「今末法に入って日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり」(御書 p776)と断言なされている。

須田: 観音品に説かれる功徳も、ものすごいものですが、それより「天地雲泥」と。大変なことです。

遠藤: 観音品では、まず「七難」から救われる功徳を説きます。
七難とは火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖(かさ)難・怨賊難の七つです。
大火に入っても焼けない(火難)。大水に漂流しても溺れないで助かる(水難)。
宝を求めて大海に入り、暴風のため船が食人鬼の国に流されても、船に乗った一人でも観音の名を唱えたら、他の人々も無事に助かる(羅刹難)。

名誉会長: たった一人でも、本気で立ち上がり、「一心に」信心する人間が現れたら、運命共同体である全員が助かる。一家、一族、会社、地域、団体、全部、救っていける。 この「一人立つ」方程式を教えている。

須田: 刀や棒で危害を加えられそうになっても、刀や棒が折れて助かる(王難あるいは剣難)。

名誉会長: 日蓮大聖人の竜の口の法難が、これです。どす黒い権力は、大聖人を頸の座にまで置きながら、どうしても処刑することができなかった。
また松葉ケ谷の法難にせよ、伊豆流罪にせよ、小松原の法難にせよ、不思議にも、いつも危機を脱しておられる。もちろん大聖人には、弟子に指導された通り、御自身に「前前の用心」(御書 p1192)があられた。世音を観じ、「師曠が耳・離婁(りろう)が眼」(御書 p1448)のように、鋭く情報もキャッチしておられた。<師曠は中国古代の音楽家。耳がさとく、音律に人一倍、鋭敏であった。離婁は中国古代、黄帝の時代の人物。目が人よりすぐれ、百歩離れたところからでも細かい毛の先端まで見えたとされる>