投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月29日(木)19時47分10秒   通報
名誉会長: 「哀音」と言っても、文字通りに哀しげな音律のこととは限らない。人を「あきらめ」に追い込む音律であり、音楽であり、文化が「哀音」ではないだろうか。
どんなに、にぎやかな印象であっても、人の心を「なるようにしかならない」という虚無に導く文化は「哀音」でしょう。反対に、静かであっても、人の美しい感情に訴え、人間を高尚にしていく文化は「妙音」に通じるのではないだろうか。そこには人間への信頼と希望があるからです。
私たちSGI運動は、音楽にとどまらず、ありとあらゆる分野で、人々の胸に「希望」をわき立たせていく運動です。その意味で、すべて「妙音運動」と言ってよい。
人の胸中にある「善性の弦(いと)」を、かき鳴らしていく運動です。それが妙音菩薩の「三十四身」ではないだろうか。

斉藤: はい。妙音菩薩は、薬王菩薩や観音菩薩と同様、「現一切色身三昧」を体得しています。
民衆を救うためならば、どんな姿にでもなって行動していこうという境涯です。

遠藤: 経典には、あるいは梵天王の身を現じ、あるいは帝釈の身を現じ、あるいは自在天の身を現じ —- とあります。
<経典には、三十四身について、次のようにある。「梵王、帝釈、自在天、大自在天、天大将軍、毘沙門天王、転輪聖王、諸小王、長者、居士、宰官、婆羅門、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、長者の婦女、居士の婦女、宰官の婦女、婆羅門の婦女、童男、童女、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩ゴ(目偏に侯)羅伽などの身を現じて、人々を救う。そして、地獄、餓鬼、畜生の三悪道の人々を救い、また、王の後宮においては女身となって法華経を説く」(法華経 p617、趣意)と。>

斉藤: 大聖人は、こう仰せです。「所用に随つて諸事を弁ずるは慈悲なり是を菩薩と云うなり」(御書 p774)

名誉会長: 相手にあわせて自在です。自由自在であり、自由奔放です。
人を鋳型にはめて、ロボットのような人間を作るのが宗教ではありません。ロボットのように縛られた生命を解放するのが仏法です。
妙音の三十四身とは、創価学会が、社会のあらゆる分野で、多角的に、また立体的に行動している正しさの証明です。
分野は違っても、すべて「慈悲」です。「人間主義」です。「悩める人の最大の味方になっていこう」という炎が燃えていなければならない。それがなくなれば「妙音」ではありません。

斉藤: かつてヤコプレフ博士(ベレストロイカの設計者)が、池田先生の行動を見て、こう言われていました。ドストエフスキーの「美は世界を救う」という言葉について、この「美」とは「人間主義」のことではないか —- と。
「人間主義」で、社会のなかへ、社会のなかへ入っていくことですね。

名誉会長: それが「美」です。それが「妙音」です。それが「法華経」です。学会の行き方は絶対に正しい。

須田: 先日(1998年10月)、ポローニャの現代宗教映画祭で、池田先生の平和行動を紹介した「旭日の騎士」が「特別賞」を受けました。その時の評価も、宗教が社会に貢献している姿に感動したという趣旨でした。

遠藤: 私たちにとっては、当たり前のようですが、新鮮なんですね。

斉藤: 口で「論じる」人はいくらでもいますが、実際に風圧を受けながら「行動」する人は少ないですから。環境問題ひとつとっても、「論じる人の数に比べて、行動する人の何と少ないこと!」と、ある人が嘆いていました。

名誉会長: 牧口先生の主張は「宗教のための宗教であってはならない」であった。美・利・善という「価値」を「創造」しなければ宗教の存在意義はないと。ここが宗門との決定的違いであった。
牧口先生は宗教が宗教の世界に閉じこもるのではなく、この現世を価値あるものに変革しなければならないと叫んで、殉教されたのです。だから、この現世を「美の国土」にしなければならない。「利(うるおい)の国土」「善の国土」に変えなければならない。また人生を「美の生活」「利(うるおい)の生活」「善の生活」へと創造していくのです。それが“創価人”の人生です。
■ 文化交流は「見えない橋」

須田: 妙音菩薩の三十四身のことを釈尊が教えると、聞いていた人々も「現一切色身三昧」を得ます。そして妙音菩薩は、仏にあいさつをして、本国へ帰ります。
帰りもまた、通り路を震動させ、宝の蓮華を雨と降らし、百千万億の種々の伎楽を奏でていきます。

名誉会長: こうして妙音菩薩品は終わる。大宇宙を「音楽」で満たして往復した物語です。宇宙に架かった「音楽の橋」です。これによって、霊鷲山の人々の境涯も、大字宙へと開かれていった。
妙音菩薩とともに来た八万四千の菩薩たちも、大境涯(現一切色身三昧)を得た。 有限の身が、無限へと開かれていく。そのための信仰です。宇宙に包まれている自分が、宇宙を包み返していく。それが妙音の勤行・唱題です。
宇宙と自分との間に「見えない橋」を架けるのです。それが「妙音」の力用であり、広く言えば「芸術」の力ではないだろうか。その「生命の橋」は、今度は、人と人との間も結ぶのです。

遠藤: ロシアのペトロシャン博士が言われていました。
「国と国、民族と民族をつなぐ『見えない橋』 —- それが文化交流です。他の(政治・経済などの)橋は、戦争でもあれば、いっペんに崩れます。しかし『見えない橋』があるからこそ、また交流が生まれる。その『見えない橋』の設計者こそ池田先生です」と。

斉藤: 私も、その言葉を感動して聞いていました。人を引き裂く「分断」の悪の力を超えて、「結合」という文化の力が必要です。
クチャーノフ博士は「世界は『善なる力』を必要としています。SGIの皆さまの力で『善の勝利』を、もたらしてください!」と語っておられました。

名誉会長: 国連の発表によれば、二〇〇一年は「文明の対話の年」と決まったようだ。文明間の対話を進めてきた学会の行き方こそが、二十一世紀を先取りしているのです。
天台大師は、妙音菩薩のことを「妙なる音声をもって、あまねく十方に吼え、此の教を弘宣す。故に妙音と名く」(法華文句)と説いている。
「正法華経」(竺法護訳)では、「妙音」は「妙吼」と訳されているようだ。 吼えたのです。師子吼したのです。
戸田先生は、亡くなられる寸前まで、「戦おうじゃないか!」というお姿であった。命をふりしぼっての先生の一言であり、お姿でした。
今、私も、あらゆる思いを一言にこめて、「戦おうじゃないか!」と叫びたい。
「迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」(御書 p1300)です。この“勢い”が法華経です。
楽しくやるのです。悠々と舞を舞いながら、進むのです。
胸を張って、「さあ、戦おうじゃないか!」と。