投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月28日(水)21時31分50秒   通報
■ アショカ大王の「文化祭」

須田: 妙音菩薩は「伎楽の供養」をしたとありますが、これは大乗仏教の特徴です。
小乗の出家教団では、音楽や舞踊を修行の邪魔として禁じていたようです。自分がするのはもちろん、見物も禁止していました。

遠藤: しかし、大乗になると、反対です。

名誉会長: 法華経の法師品(第十章)でも、法華経に対して伎楽等をもって供養しなさいと説かれていたね。また、インドのアショカ大王も「伎楽供養」を行なっていたという。〈紀元前三世紀のマウリヤ朝第三代の王。仏教を厚く信奉し、福祉・平和の施政を行なった。悪侶を追放したり、動物を生贄にすることを禁じたりもした〉

斉藤: ストゥーパ(仏塔)の周りで行なった祭りが、そうですね。

名誉会長: 有名だ。仏塔を囲むようにして、歌手が歌い、さまざまな楽器が演奏された。
演劇あり、舞踏会あり。詩の朗読もある。いろいろな商人も「いらっしゃい、いらっしゃい」と声をかける。

遠藤: 楽しそうですね(笑い)。
────────────────────────────────────────
「御義口伝」から
御義口伝に云く妙音菩薩とは十界の衆生なり、妙とは不思議なり音とは一切衆生の吐く所の語言音声が妙法の音声なり三世常住の妙音なり、所用に随って諸事を弁ずるは慈悲なり是を菩薩と云うなり、又云く妙音とは今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は末法当今の不思議の音声なり(御書 p774)

御義口伝には次のように仰せである。
妙音菩薩とは十界の衆生のことをいう。妙とは不思議ということである。音とは一切衆生の吐くところの言葉・音声か妙法の音声であり、三世常住の妙音である。相手の必要に応じて、もろもろの行動で対処するのは慈悲のはたらきであり、これを菩薩というのである。
また仰せである。妙音とは、今、日蓮ならびにその門下が南無妙法頚華経と唱え奉ることが、まさに末法の今における不思議の音声(妙音)なのである。
────────────────────────────────────────
名誉会長: 軽業師に見とれる子どもがいる。手品や奇術に、やんやの喝宋。
ボクシングや、相撲の試合がある。動物や鳥たちを闘わせている男たちもいる。
目にも鮮やかな衣装で踊り続ける乙女たちもいる。それに、ぼうっと見とれている若者もいる(笑い)。 松明や、パレードがある。

斉藤: 絢爛たる「文化祭」「音楽祭」ですね!

名誉会長: これが、「法(ダルマ)」を称え、供養するための「伎楽供養」です。楽しい供養です。
“法に生きる喜び”を全身で表したとき、歌がこぼれ、体が動き出した。その“平和の波”が広がっていった。「アショカの文化祭」は、私たちの大文化運動の先駆と言えるでしょう。

遠藤: 「明るい」ですね。

名誉会長: 明るいし、美しい。平和です。
平和と文化は表裏一体だ。平和がなければ文化はない。文化が興れば、平和は広がる。刹那的、享楽的な文化ではなく、尊き人間性を開放する文化です。人間の善性を信じ、永遠なるものに向かって高め合っていく。そういう香り高い文化です。歌手のサイフェルト女史(ヨーロッパ青年文化協会会長、元オーストリア文部次官)は言われた。「芸術は私たちの中にある『聖なるもの』の表現なのです」と。

斉藤: じつは、法華経を今の形にまとめる際に、アショカ大王の伎楽供養の史実が念頭にあって、妙音品などの流通分ができた —- という説もあります。これが事実かどうかはともかく、法華経と音楽は切り離せません。

名誉会長: そう言えば、鳩摩羅什(法華経の漢訳者)のふるさとも、有名な「音楽の国」だったね。

遠藤: いにしえの「亀茲国」、今のクチヤですね。<中国・新疆ウイグル自治区にある。天山山脈の南麓に開けた高原の街>

名誉会長: 漢の時代には、人口八万を超える「西域第一の王国」だった。特に「歌舞音曲」「管弦伎楽」に優れ、「亀茲楽」と呼ばれて、大変な人気だったようだ。
唐の都・長安でも、人々は争って、エキゾチックな、その調べに聞きほれた。
正倉院の有名な「五弦の琵琶」の源流も、「亀茲琵琶」であったという。雅楽にも影響は大きかった。この「音楽の王国」は同時に「仏教の王国」だった。あの玄奘三蔵もこの地を訪れて、仏教の盛んな様子に驚いている。

須田: 西遊記の“三蔵法師” のモデルになった大旅行者ですね。