投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月28日(水)13時03分11秒   通報
■ 「世界一の鼓笛隊にしよう」

遠藤: 鼓笛隊ひとつとっても、池田先生が始められたんですね。鼓笛隊の歴史を学んで、本当に先生の“手づくり”だったんだと、よく分りました。
発足は、昭和三十一年(1956年)の七月二十二日です。わずか三十三人の乙女によるスタートでした。若き池田先生が、ポケットマネーをはたいて、楽器をプレゼント。
音楽隊長の有島重武さんが奔走して、集まった楽器は、ファイフ(横笛)四十本、ドラム十個でした。ドラムは米軍の払い下げで、派手な赤と青の線が入っていたといいます。 すぐに練習を開始したものの、ドラムスティックの握り方もわからず、ファイフも手にしたこともない人たちばかり。五分も吹き続けていると、頭がフラフラして、「一人の例外もなく目まいがしてくる」ありさま。しかし、池田先生は「世界一の鼓笛隊にしよう」と、機会あるごとに激励されました。
初出場の日。昭和31年(1956年)9月3日の女子部幹部会(中野公会堂)。毎日練習を重ねていましたが、当日になっても、「息の音しか出ない」人が半分近くいました。どうにか音の出る人が前に並び(笑い)、音の出ない人は後ろに並んだ。
曲目は、「憂国の華」「日の丸」「荒城の月」。初舞台のため、足はガクガク。指は思うように動かず、かすかな音しか出ない。ドラムは、舞台の床にぺたんと置き、立てひざで打った —- 。
この妙な光景に、会場から、クスクスと笑い声が起きました。しかし、隊員の真剣な姿に、いつしか皆、目に涙を浮かべて聴き入っていた。曲が終わりに近づいた時には、演奏者と聴衆が一体となった、と。
その二十日後、第三回「若人の祭典」に出場。正面スタンド左側に、むしろを敷いて演奏。戸田先生が近くに来て、「鳴るかね?」と優しく声をかけた。全員、喜びにはずんで、戸田先生を囲んだそうです。
服装はクリーム色のブラウスと黒のスカート、黒リボン。靴は、練習中に履いていた運動靴に、白いチョークや歯磨き粉を塗って出場しました。これが最高の晴れ姿でした。「白のソックスをはくなど、思いもよらなかった」と聞きました。
すると大会終了後、池田先生から全員に、真っ白なソックスがプレゼントされたのです。皆、うれしくて、涙があふれてしかたがなかった —- そう、うかがいました。

名誉会長: 懐かしいね。今、文字通り「世界一の鼓笛隊」になった。「平和の天使」は各地に、そして全世界にいて、乱舞しています。
演奏を聞いた人が、なんと「明るく」「美しい」のかと感激している。人を歓喜させているのだから「菩薩」です。友好の心を広げている。平和の波を広げている。
音楽には国境は無い。ダイレクトに「心から心へ」飛び込んでいく。一本の笛(ファイフ)に、一個の鼓(ドラム)に、宇宙の本流のリズムを宿らせて、人類の胸の奥底の「平和への願い」の糸をかき鳴らしているのです。

斉藤: 心ですね。「心から心へ」 —- 。

名誉会長: ベートーヴェンが好きだった言葉です。「心から出ず。願わくは、心に至らんことを」。たしか、荘厳ミサ曲の「キリエ」の楽譜に、彼自ら書き入れた言葉です。その「心」を耕すのが文化であり、根本的には宗教なのです。

須田: 鼓笛隊の「心」に感動した一人に、ジャズ界最高峰と言われたアート・ブレイキー氏がいます。
昭和四十年(1965年)一月十八日、氏の演奏会が行なわれました。二時間の熱演の後、幕が下りた後も、興奮冷めやらず、聴衆は席を立とうとしません。
その時、聴衆の中から、数人の少女たちがドラムをかかえて舞台裏へ突進していきました。たどたどしい英語で、自分たちが鼓笛隊メンバーであることを話しました「ぜひ教えてほしい」。あまりの熱心さに、氏はその場で直ちに教え始めました。

名誉会長: まあ、非常識きわまるが —- (笑い)。

須田: 氏も驚いたでしょうが(笑い)、少女たちの真剣さに打たれてか、氏のほうから、日を改めて教えることを約束してくれたのです。
一月二十六日、アート・ブレイキー氏を迎えて、音楽隊・鼓笛隊の有志が集い、リズムの基礎打ちのレッスンが行われました。鼓笛隊員の一生懸命な姿に、彼も背広を脱ぎ捨て、すぐスティックを取って、全魂こめてたたき出しました。
「形式や、形で打つのではない。ハートで打つのだ!」。こう言いながら、エネルギッシュに、たたき続けた。全身から噴き出る汗をぬぐおうともせず、巨体でリズムをとり、「シャシャーン!」と、シンバルを打つ。すさまじい迫力。
教える側と教わる側が一体になった練習が約一時間続きました。約束の時間を過ぎても、彼はやめようとしない。
最後に、汗と涙でくしゃくしゃの顔で「私は、日本の本当の姿を見た。日本は私のふるさとだ」と語り、舞台のそでに駆け込んで、マネジャーと抱き合い、号泣していたといいます。こうした“一流”と触れるなかで、多くの人材を輩出していったのですね。
■ 勇気の声 —- それが「妙音」

名誉会長: 「一流」に触れなければ「一流」にはなれない。
低いものから段々、高いものへというのではなく、芸術とか哲学・宗教は、また人生は、「超一流」に、いきなり触れることです。そうすれば、二流・三流は、すぐに見抜ける。低いものばかりに触れていると、本当に良いものが分からなくなってしまう。
ともかく鼓笛隊も音楽隊も、合唱団も、よく成長した。何より、うれしいのは、「妙音」の訓練の中から、立派に自分自身を人間革命した人材が育ってきたことです。
“芸術は立派だが、人生は失敗だった”そういう芸術家も多い。そういう悲劇を美化する人もいる。しかし、「芸術」といっても、その当体である「人間自身」が堕落し、敗北してしまっては、芸術の本当の光もないと私は思う。
「妙音」の意味には諸説あるが、その一つに「どもる人」とあったでしょう。

斉藤: はい。「妙音」は、サンスクリット語では「ガドガダ・スヴァラ」です。一つには「吃音」の意味とされています。“聞きづらい”声の人ということになります。

名誉会長: それがどうして「妙音」の人となったのか。経文にないから、想像するしかないが、そこには一個の「人間革命のドラマ」があったのではないだろうか。
妙音菩薩がやってきた時、あまりの素晴らしさに、「一体、どんな善根を植えて、こうなったのですか」と華徳菩薩が聞いた。

遠藤: はい。そこで釈尊が妙音の過去世を明かします。
—- 昔、雲雷音王仏の時に、仏に十万種の伎楽(舞踊と音楽)、そして八万四千もの七宝の鉢を供養した。その功徳で、妙音菩薩として生まれ、さまぎまな神通力や福徳を具えることができた、と。

名誉会長: 日蓮大聖人は、この「八万四千」とは「八万四千の塵労」だと仰せです。〈「御義口伝」、御書 p775〉
ありとあらゆる苦労のことです。人生は、無数の塵のように、きりのない苦労の連続です。その苦労が、南無妙法蓮華経と唱える時に、全部「八万四千の法門」となる、と。  苦労した分だけ、全部、教訓となり、智慧となり、指導力と変わるのです。
文底から見るならば、妙音菩薩も、苦しみと戦い、戦い、また戦って、題目をあげ、人間革命したのです。それが「八万四千の七宝の鉢」を仏に供養したことに通じる。私たちも同じだ。つらいことがあっても、負けないで、題目を唱えながら前へ前へ進むのです。 広宣流布に生き抜けば、必ず、最高に「よい人生の流れ」に入っていける。「幸福の川」「宝の川」の流れに入っていく。
凡夫の目には見えないが、宇宙には「道」があり、「生命の流れ」があるのです。その中でも妙法の黄金の流れに入っていけるのです。
「広宣流布」という最高の「流れ」に入っていくことです。自分も一家も一族も、皆、厳然と幸福の流れに入っていけるのです。
妙音菩薩も、苦しい宿命と戦いながら、最後に「勝利の歌」を歌ったのではないだろうか。悩みと戦いながら、周囲の人々には、温かな励ましの声を送り、勇気の調べを奏でていった —- 。
そんな姿が、心に映じてきてならない。
友を励ます「真心の声」。それが「妙音」です。人の心を揺さぶる「確信の言葉」。それが「妙音」です。悪を破折する「正義の叫び」。それが「妙音」なのです。