投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月25日(日)11時49分2秒   通報 編集済
■ 「師匠の恩に報いるのだ!」

須田: 薬王品のストーリーですが、一口に言って、薬王菩薩の「師匠への報恩」の物語です。宿王華菩薩が釈尊に質問します。「薬王菩薩は、なにゆえに娑婆世界で難行苦行しているのですか。皆、聞きたがっています」と。それに釈尊が答えます。
「過去に日月浄明徳仏という仏が法華経を説いたとき、一切衆生喜見菩薩という菩薩がいた。彼は法華経を聞き、一心に仏を求めて修行し、一万二千年後に『現一切色身三昧』という境涯を得た」 —- 。

遠藤: “十界の一切衆生の姿を自在に現せる”境涯ですね。
三十四身、三十三身と同じです。

須田: 彼は、この境涯を得られたのは法華経のおかげであり、仏のおかげであると知っているゆえに、「よし、師匠と法華経を供養しよう!」と報恩の誓いを立てます。そして最高の供養は、自分自身の生命を捧げる供養だと考え、さまざまな香や香油を飲んだ後、香油を身に塗って、自身の身を燃やし、その光明を供養しました。
その灯明は千二百年にわたって燃え続け、世界を照らしました。諸仏は、この供養は「第一の布施」であり、「法の供養」であると、称えます。

名誉会長: 「報恩」に徹した真心が世界を照らしたのです。
私どもも、御本尊のおかげで幸福になれた。御本尊を教えてくれた創価学会のおかげで正しい人生を知った。その「報恩の一念」が奥底にあれば、福運は加速度的に増していく。どんなに表面は行動しているようであっても、「報恩の心」がなければ、その増上慢が福運を消していく。境涯の革命もできない。
わずかな一念の違いが、百八十度違う結果になってしまう。組織のうえで偉くなっても、社会で出世しても、「報恩」の行動を忘れたら、身は堕ちねども心は堕ちた姿です。

遠藤: 一切衆生喜見菩薩の「報恩」の思いは千二百年、わが身を燃やしても尽きません。やがて、燃え尽きて命を終えた後、また同じ日月浄明徳仏の国に生まれ、浄徳王の家に誕生します。そして再び日月浄明徳仏のもとへ行って、報恩の供養を捧げようとするのです。

名誉会長: 生死を超えた報恩の一念です。
「死後もまた師匠のもとに生まれて、戦うのだ」と決めていた。「現一切色身三昧」を得ていたのだから、どこに生まれるかも自在です。妙法の信心に徹すれば、自在です。
────────────────────────────────────────
薬王菩薩本事品から
此の経は能く一切衆生を救いたもう者なり。此の経は能く一切衆生をして諸の、苦悩を離れしめたもう。此の経は能く、大いに一切衆生を饒益して、其の願を充満せしめたもう。 —- 子の母を得たるが如く、渡に船を得たるが如く、病に医を得たるが如く、暗に燈を得たるが如く —- 此の法華経も亦復是の如し。能く衆生をして、一切の苦、一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたもう(法華経 p602)

此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん(法華経 p606)

この経(法華経)は一切衆生を救うことができる。この経は一切衆生を、諸の苦悩から離れさせることができる。この経は大いに一切衆生に利益を与えて、その願いを満足させるのである。
それはあたかも —- 子が母を得たように、渡航する時に船を得たように、病気の時に医師を得たように、暗闇で灯火を得たように —- この法華経もまた、これらのようである。衆生を、一切の苦、一切の病痛から離れさせ、一切の迷苦の束縛から解放することができるのである。

この経は、閻浮提(全世界)の人の病を治す良薬である。もし人が病気になった時に、この経を聞くことができれば、病は即座に消滅して不老不死となるであろう。
────────────────────────────────────────
斉藤: 再び師匠にまみえた一切衆生喜見菩薩に対して、師は自身の入滅の時が来たことを告げ、法を彼に付嘱します。
また仏の一切の弟子、一切の宝をすべて彼に託したのです。

名誉会長: 報恩第一の弟子に、すべてを託したのです。

須田: 一切衆生喜見菩薩は、日月浄明徳仏の舎利(聖骨)を八万四千の塔を造って供養します。しかし、師を恋慕する彼の心は、それでも満足しません。
そこで彼は八万四千の塔の前で、自分の臂(腕)を燃やして供養します。それが七万二千年、続きます。この時、人々は師匠である一切衆生喜見菩薩の臂が失われたことを悲しみますが、菩薩は「私は両方の臂を失ったが、必ず仏の金色の身を得るだろう。それが嘘でない証拠として、私の臂は元通りになるだろう」と言います。すると、この言葉の通り、臂は元通りになります。

名誉会長: このように、大確信をもっての供養は、必ず、それ以上の福徳となって返ってくる。疑いながら、いやいやながらでは、真の供養にならない。「心こそ大切」なのです。

須田: こういう過去を釈尊は語り、この一切衆生喜見菩薩こそ、現在の薬王菩薩であると説くのです。