投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月24日(土)17時53分25秒   通報
■ 「本化」と「迹化」

須田: はい。前の章の「嘱累品」(『法華経の智慧 第五巻』)までで、法華経の「付嘱」は終わっています。ですから、ある意味で、ここで法華経は終わってよいはずです。
しかし、「薬王品」に続いて「妙音菩薩品」「観世音菩薩普門品」「陀羅尼品」「妙荘厳王本事品」「普賢菩薩勧発品」と、六品が加わっています。これは、なぜなのか。大聖人は「くん(手偏に君)拾遺嘱」と言われています(御書 p252)。

遠藤: くん拾は「落穂を拾う」ことです。本来の刈り入れ、収穫が終わった後、残った落穂を拾い集めることです。
地涌の菩薩への「別付嘱(神力品)」、すべての菩薩への「総付嘱(嘱累品)」によって、釈尊滅後の人類をどう救っていくかという「バトンタッチ」の儀式は終わりました。そのうえに、なお重ねて、迹化、他方の菩薩に念を押して、法華経の弘通を託した。いわば“ダメ押し”のための六品だと思います。

名誉会長: 「一人も残さず、救いきるのだ」「どんなことがあっても、妙法を広宣流布するのだ」という気迫が、この六品には込められている。形のうえでは「付録」のようであり、事実、法華経の成立史研究では、後から加えられた部分とする説が強い。

斉藤: たしかに、それぞれが独立した一経のように整えられていますし、相互の関連も薄い。実際、「観音品」は「観音経」とも呼ばれ、独立した一経として信仰されてきた歴史があります。

名誉会長: とはいえ、これら六品は単なる「付録」ではない。二処三会でいえば、六品は(「前半の霊鷲山会」「虚空会」につづく)「後霊鷲山会」であり、虚空会で明かされた「永遠の妙法」を胸に、現実社会へ打って出るという重要な意義をもっている。

須田: 従果向因(仏界から九界へ向かう)ですね。

名誉会長: 寿量品の文底の南無妙法蓮華経を信受したうえで、それぞれの舞台で妙法を「実証」する。「実験証明」して「流通」していく。だから、この六品に登場する菩薩は、非常に多彩な姿になっているでしょう。

遠藤: 薬王、妙音、観音、(陀羅尼品に出る)勇施、(妙荘厳王品に出る)薬上、普賢など、多彩な顔ぶれです。

斉藤: 個性豊かな感じですね。

名誉会長: あくまで譬えであるが、光がプリズムを通ると七色に分散する。「光」は全体、「七色」は光が割れてできた部分、部分です。そのように後霊鷲山会での迹化の菩薩は、仏界という光を胸中に灯しながら、それぞれの使命の姿を彩り豊に現わしているのではないだろうか。

斉藤: たしかに「迹」には「影」の意味があります。天台大師は「本」を天の月(本体の月)に、「迹」を池月(池に映った月)に譬えています。

遠藤: 天月は一つでも、池月は無数にあるわけです。池はいくらでもありますから。

須田: そうしますと、本化の菩薩(地涌の菩薩)が対照的に地味というか、生一本というか、飾り気のない印象なのも、うなずけますね。リーダーとして挙げられているのは上行、無辺行、浄行、安立行菩薩ですが、名前のつけ方からして、迹化の菩薩とは全然違います。

名誉会長: そう、次元が違う。四菩薩の名前は、「本体」「天月」としての「妙法」そのものの働きを代表している。その使命も「妙法の流布」そのものなのです。
「本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり」(御書 p751)と仰せの通りです。

遠藤: 整理しますと「迹化の菩薩」とは第一に「迹仏(久遠の本地を開顕していない仏)に化導された菩薩」のことです。
これに対し、本仏と一体不二の直弟子が「本化の菩薩」です。

名誉会長: そう。その位は、天地雲泥です。

遠藤: 釈尊滅後の広宣流布の「主役」も、あくまで本化地涌の菩薩なのです。迹化の菩薩は「脇役」というか、主役を「助ける」立場です。この「地涌の使命を助ける」働きを明かしたのが、後霊鷲山会の六品と考えられます。これが一往の義です。

須田: 今も、信心はしないが、広宣流布に賛同し、応援し、顕彰してくださっている人々が全世界にいます。こういう働きも、「迹化の菩薩」の一分と考えてよいでしょうか。
名誉会長: そう言って、よいでしょう。もちろん、あくまで広布を支える「働き」のことであり、実体的なものではない。