投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月21日(水)17時06分2秒   通報
■ 「如来の秘密」を全て開示

須田: 釈尊が、もしも法華経を説かなかったら、「慳貪(もの惜しみ)の罪」に堕ちていたと、御書には説かれています。(御書p15等)
法華経で「如来秘密神通之力」(法華経p496、寿量品)を全部、示したということです。

名誉会長: 日蓮大聖人は、この寿量品の文を「本門の極理」と言われている。その実体は「文底の南無妙法蓮華経」です。
<「法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり、一切の功徳法門・釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の修因感果・法華経の文文句句の功徳を取り聚めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり、爰を以て釈に云く惣じて一経を結するに唯だ四のみ、其の枢柄を撮つて之を授与す云云、上行菩薩に授与し給う題目の外に法華経の極理は無きなり」(御書p844)
過去・現在・未来の、全宇宙の、すべての仏を成仏させた「根源の種子」を、そのまま弘めるのです。まさに「如来の秘密」そのものなのです。

須田: 本当に、あけっぴろげというか、気前がいいというか、大盤ぶるまいというか、法華経は「情報開示」の究極とも言えそうです(笑い)。

名誉会長: 「大慈悲」です。戸田先生は、自分だけが拝んで、広宣流布に働かないのは「まんじゅうを、一人で、こっそり隠れて食べるような信心」と言われていた(笑い)。
牧口先生も「菩薩行をせねば仏になれない」と、折伏を叫ばれた。宗門が弘教を忘れていたことを叱ったのです。

斉藤: 「信者と行者を区別しなければならない」と言われたんですね。
「信ずるだけでもお願いをすればご利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義(利己主義)の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである。即ち親心になって他人に施すのが真の信心でありかつ行者である」(大善生活実証録)

名誉会長: 「親心」というのは、わかりやすいね。親が子どもを慈愛するように、正法を施すのが折伏です。
決して、勢力拡大でも売名でもない。単なる理論闘争でもない。
何もわからず、むずかる赤ん坊に、親がミルクをあげるような気持ちで、温かく、時には厳しく、時にはなだめ、導いていくのです。
相手と同じ次元になって、感情的にけんかしたりしては、「如来の使い」でなくなってしまう。「忍辱(忍耐)の衣」を厚く着こまなければならない。
反対に「(信心を)やってください」と頼むような卑屈な態度は、法を下げてしまう。「親心」です。
戸田先生は「折伏の『折る』というのは、悪い心を折る、そして折伏の『伏する』ということは、善い心に伏せしめる」と説かれた。親ならば、子どもが、悪い不幸な道に入っていくのを黙って見ていないでしょう。厳しく叱る場合がある。この厳愛が折伏です。
要するに、最高の正義であるし、最高の勇気です。
慈悲と言っても、凡夫には慈悲なんか、なかなか出るものではない。
「自分は慈悲がある」なんて言うのは、大ていは偽善者です。
だから慈悲に代わるものは「勇気」です。「勇気」をもって、正しいものは正しいと語っていくことが「慈悲」に通じる。表裏一体なのです。表は勇気です。

斉藤: 先ほども嘱累品に「畏るる所無くして」とありました。