投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月21日(水)19時54分44秒   通報
■ 先生の“メモ”が支えてくれた!

名誉会長: 悪と戦うのが「折伏精神」です。内部の悪に対しても、黙っていてはいけない。折伏精神は万般にわたるのです。
戦時中には座談会にも特高の刑事が来ていた。話が神札問題に触れると必ず「中止!」の声がかかる。牧口先生は、しばらく話をそらして、また神札に触れると、また「中止!」です。
そばの人が「なんで、あんなに注意されることがわかりながら、牧口先生は繰り返すのかな」と、思ったほどであった。
だれも牧口先生の深いお心はわからなかったのです。先生は毅然として、むしろ刑事を折伏するかのような勢いであったという。それに比べれば、今は自由の時代です。それで戦えなかったら、あまりにも、いくじがない。
牧口先生は、そういう獅子王の勇気とともに、こまやかに一人一人に愛情を注がれた。人の上に立つ者の一番の条件は、愛情です。これしかない。
先生は、入信まもなくて何もわからない人たちに懇切丁寧に教えておられた。
話しているときによく、紙を出して、筆でサラサラとメモをとられていたという。それは指導をした人の問題をきちんと覚えておいて、問題が解決するまで激励を続けていくためのメモだった。
また、それぞれの人にふさわしい御書の一節や、指導の言葉をメモに書いて渡しておられた。御書もなく、学会の出版物もない時代です。皆、このメモを持って、弘教に歩いたのです。

遠藤: 嘱累品では、本化・迹化を問わず、すべての菩薩に、布教を命じ、託します。
その荘厳な様子を、こう大聖人は表現しておられます。
「属累品の御心は仏・虚空に立ち給いて四百万億那由佗の世界にむさしののすすきのごとく・富士山の木のごとく・ぞくぞくとひざをつめよせて・頭を地につけ・身をまげ・掌をあはせ・あせを流し、つゆしげくおはせし上行菩薩等・文殊等・大梵天王・帝釈・日月・四天王・竜王・十羅刹女等に法華経をゆづらんがために、三度まで頂をなでさせ給ふ、譬えば悲母の一子が頂のかみをなづるがごとし、爾の時に上行乃至・日月等忝き仰せを蒙りて法華経を末代に弘通せんと・ちかひ給いしなり」(御書p1245)
<嘱累品の心は、釈尊が虚空に立たれて、四百万億那由佗の世界一面に、武蔵野の芒のように、富士山の木のように群がり、膝を詰め寄せ、頭を地につけ、身をかがめて、手を合わせ、汗を流して、釈尊の前に露のようにおびただしく集まった上行菩薩等や文殊等、大梵天王・帝釈・日月・四天王・竜王・十羅刹女等に法華経を譲るために、三度も頂をなでられたことにある。たとえば、悲母が子どもの髪をなでるようなものである。その時に、上行や日月天等は、かたじけない仰せを受けて、法華経を滅後末代に弘通することを誓われたのである>

名誉会長: 「武蔵野のすすき」「富士山の木」 —- 詩的ですね。大聖人は詩人です。

須田: このように、見わたす限りに連なった菩薩は、こう誓います。
「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし。唯然なり世尊、願わくは慮したもうこと有らざれ」(法華経p587)
<「はい。私たちは、世尊のご命令通りに実行します。どうか、世尊、ご安心ください。心配なさらないでください」>
これを三回、繰り返します。

名誉会長: 凛々しいね。すがすがしい。
師匠も、うれしかったでしょう。師匠に心配をかけないことが大事です。
ただでさえ師匠は、弟子が想像も及ばぬほど、弟子のことを心配しているものだ。そして、嘱累品に、弘教の人は「諸仏の恩を報ずるなり」(法華経p585)とある。
仏の願い、師匠の願いは、ただ「広宣流布」にある。ゆえに弘教に走ることが、それこそが師匠への「報恩」になるのです。
恩を忘れて仏法はない。いな人道はない。仏法は「人間の生き方」を教えたものです。ゆえに、仏法者は、だれよりも「知恩の人」「報恩の人」でなければならない。

斉藤: 仏法を教えてくれた創価学会の恩を絶対に忘れてはならないと思います。創価学会にお世話になりながら、学会を下に見るような人間は、自分で自分を破壊しているようなものです。

須田: 師匠に言われた通りに、「当に具さに奉行すべし」。その通りに、私見をまじえず、「具さに」つまり「ひとつ残らず、全部」実行します。これが「弟子」ですね。

遠藤: ともすれば「師匠はああ言われているが、今は特別の事情があるから、その通りにはできない」とか、「師匠の教えは教え、現実は現実」となりがちです。

名誉会長: それでは、自分で、師弟の間の電線を断ち切ってしまうようなものだ。電流が通うわけがない。力が出るはずがない。
師弟とは、弟子の「自覚」の問題です。形式ではない。師匠に何回、会ったとか、そばにいるとか、幹部だとか、それは形式です。たとえ師匠から離れた地にいようとも、直接話したことがなくても、自分が弟子の「自覚」をもって、「師匠の言う通りに実行するのだ」と戦っていれば、それが師弟相対です。
根幹は、師匠対自分です。組織の機構や役職等は方便です。それをまちがうと、大変です。仏法という「師弟の世界」を壊して、官僚的な「形式の世界」にしてしまったら、大変なことになる。
どんなに人知れず、陰で働いていても、師匠の指導通りにやっているならば、師弟相対は深い。
それが外れていたら、どんなに華々しく行動していても、何にもならない。
師弟の道を離れて、仏法はないのです。
法華経が他の経典よりも優れている理由の一つに、天台大師は「師弟の遠近不遠近」を挙げた。ここには重大な意義がある。
<法華玄義に説かれた「三種の教祖」の第三。爾前経・迹門では、始成正覚の釈尊からの師弟関係しか明かしていないが、法華経の本門において“久遠以来の師弟関係”を明かした>