投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月18日(日)18時05分0秒   通報
斉藤: 事顕本と理顕本の関係も、それに似ているかもしれませんね。釈尊の「事顕本」を見て(聞いて)、わかりの早い人は、その裏にある「理顕本」までわかってしまったということです。

名誉会長: 御本尊の相貌は、中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」の脇士として、釈迦如来と多宝如来が示されている。そのまた脇士として地涌の四菩薩が示され、重々の脇士になっている。
事顕本は、この脇士の「釈迦如来」の一身のことです。五百塵点劫という、はるかな昔に成仏しましたという「本果」を示した。また、その本果の功徳として、長遠の寿命と、あらゆる衆生を救う無限の智慧と慈悲を示した。その説法を聞いて、では、その偉大な「本果」とは、いかなる「本因」から生まれたのか、本果の功徳が帰する「根源」は何か —- それがわかったのが、理顕本を悟ったことになる。

遠藤: 久遠の成仏の原因については、寿量品に「我本行菩薩道(我本、菩薩の道を行じて)」とだけありますが、その文の「文底」に、成仏の「本因」ある。これが「文底」の意味です。

須田: 天台宗でも、文上・文底という言葉こそありませんが、これに通ずる考え方は、すでにはっきりあります。それが「事用顕本(事顕本)」「理体顕本(理顕本)」です。
また「教相顕本」「観心顕本」という立て分けをする門流もあります。示そうとしている方向性は同じです。

斉藤: 経文の表面に現れていない“真実の顕本”がある —- ということですね。

名誉会長: それは何か。
寿量品での説法は、釈尊個人についての「顕本」です。
「人間・釈尊」が自分の「生命の本質」を示したといってもよい。これは、あくまで「個人としての」顕本です。
しかし「文底」の顕本は、これとまったく違う。けたはずれに違う。それは全宇宙的な顕本です。凡夫から仏まで、十界の一切衆生の全体の顕本なのです。
「文上」では、五百塵点劫の昔から説法教化し続けている「永遠性の仏」が示された。

須田: 「久遠実成の釈尊」です。

名誉会長: しかし永遠性といっても、完全に永遠ではない。どこまでも「有始(始めがある)」の仏です。だから無始無終の宇宙即妙法と一体とは言えない。“すき間”がある。ゆえに、文上の仏は「法勝人劣(法が勝れ、人が劣る)」です。
寿量品の真意は、この「永遠性の仏」を通して、完全なる「永遠の仏(久遠元初の自受用身)」を示唆するところにあったのです。この「永遠の仏」は無始無終の妙法と一体です。宇宙の大生命そのものであり、「人法一箇」です。

遠藤: ということは、宇宙の一切衆生が、そのまま「永遠の仏」だということになります。

名誉会長: 生きとし生けるものが本来、仏なのです。これが寿量品の叫びです。これに目覚めよと法華経は訴えているのです。

斉藤: 整理しますと、文上の顕本は「釈尊個人の顕本」、文底の顕本は「全法界(十界)の顕本」 —- こうなります。

須田: スケールも深さも、全然、違いますね!

名誉会長: まるっきり次元が違う。本門と迹門の違いが「水火天地の違目」(御書p996)と言われている真意は、文底の顕本を知って初めてわかるのです。

遠藤: 「如来とは一切衆生なり寿量品の如し」(御書p770)と大聖人が言われた本義も、文底の次元から言われているわけですね。