投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月18日(日)08時24分58秒   通報
■ 「事顕本」と「理顕本」

斉藤: はい。「一切衆生が如来である」という点についてですが、まず寿量品の「発迹顕本(迹を発いて、本を顕す)」をふり返ってみます。
釈尊が今世の修行で成仏したという「始成正覚」を否定して、じつは五百塵点劫の昔から娑婆世界で説法し続けてきたと明かします。これを「事顕本」と呼ぶ場合があります。

名誉会長: 「理顕本」に対する言葉だね。御義口伝にある。

須田: はい。「随喜功徳品(第十八章)」の「随喜」について「随とは事理に随順するを云うなり(中略)事とは五百塵点の事顕本に随順するなり理とは理顕本に随うなり所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり」(御書p761)とあります。

遠藤: 「法師功徳品(第十九章)」の御義口伝にも「寿量品の事理の顕本」(御書p763)と仰せです。

名誉会長: 事理の顕本については古来、天台宗等でも、いろいろな議論があるが、端的に言うと、どうなるだろうか。

斉藤: はい。一般に、「事」とは現象として現れたものであり、「理」とはその現象の奥にあって目に見えない理法とか理体を指します。
今の場合、「事顕本」とは、寿量品の説法そのものです。「五百塵点の事顕本」とある通りです。これに対し、「理顕本」とは、文上には、はっきりと説かれていないけれども、「事顕本」が内々に示している「久遠元初の自受用報身如来の顕本」を指すと言ってよいと思います。

名誉会長: 結論的には、そう言えるでしょう。「分別功徳品(第十七章)」の「御義口伝」に、(一念信解の)信解について、こうあった。
「信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり解とは事顕本を解するなり」(御書p760)云々と。
理顕本は、はっきり説かれていないから「信ずる」しかない。それは、とりもなおさず事顕本の本義を「解した」ことになるのです。

須田: 寿量品の説法(事顕本)を聞いて、人々は何を悟ったのか。それは「理顕本」だということですね。

名誉会長: 「顕本」などというと難しく感じるが、「自分の本領を発揮する」ということです。日本の時代劇で言えば、「水戸黄門」です(笑い)。最後に「正体」を現すでしよう。あれは一種の顕本と言ってよい(笑い)。

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御義口伝から
(法華経如来神力品)日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を減し 無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん 是の故に智有らん者 此の功徳の利を聞いて 我が滅度の後に於いて 応に斯の経を受持すべし 是の人仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん(法華経p584)

御義口伝に云く畢竟とは広宣流布なり、住一乗とは南無妙法蓮華経の一法に住す可きなり是人とは名字即の凡夫なり仏道とは究竟即なり疑とは根本疑惑の無明を指すなり、末法当今は此の経を受持する一行計りにして成仏す可しと定むるなり(御書p772)

通解
(如来の滅後、法華経をよく持つ)人は、太陽と月の光明か、もろもろの闇を除くことができるように、この人は世間の中で行動して、衆生の闇を滅し、無量の菩薩を最後に必す一乗の境地(妙法)に到達させることかできるであろう。ゆえに智者ある者は、この功徳の利益を聞いて、私(釈尊)の入滅後には、まさにこの経を受持すべきである。この人が、仏道を成就することは、絶対に疑いのないことである。

御義口伝には次のように仰せである。
「畢竟して」とは広宣流布である。「一乗に住せしめん」とは、南無妙法蓮華経の一法に住すべきであるとの仰せである。「是の人」とは名字即の凡夫である。「仏道」とは究竟即である。「疑い」とは根本疑惑の無明を指すのである。末法の当今にあっては、この法華経を受持するというただ一つの修行によって、成仏できると定められたのである。
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遠藤: ただの「隠居じじい」だと思っていたら(笑い)、じつは「前の天下の副将軍だった」と。たしかに顕本です。

須田: 悪人はぎよつとして腰を抜かし(笑い)、善人は大喝采。これは「顕本」の功徳ですね(笑い)。

名誉会長: もちろん譬えていえば、です。外国の小説でいえば、巌窟王として有名な「モンテ・クリスト伯」。博学で大富蒙の伯爵が、「正体」はエドモン・ダンテス青年の変わった姿だと明かすシーンです。これも一種の「顕本」と言えるかもしれない。まあ、復讐のためのドラマではあるが —- 。

斉藤: 水戸黄門を、それまで軽く見ていた人が、「えっ」と驚く(笑い)。
法華経でも、はじめ文殊菩薩とかの大菩薩ほ、釈尊の弟子ではなくて、他の仏の弟子ということになっています。そこで釈尊を「成仏したばかりの新仏」のように見ているわけです。それがじつは久遠からの仏なんだと教えられ、そういう迷妄を打ち破られます。

遠藤: そうすると、例の「助さん」「格さん」というのは、「脇士」ということですね(笑い)。

名誉会長: だから「黄門さま」の正体を知っている人は、「脇士」を見ただけで、どきっとする(笑い)。

須田: 「あっ、これは裏に“親分(黄門)”がいるんだな」と(笑い)。