投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月16日(金)17時03分31秒   通報
名誉会長: 「大乗非仏説」は、「仏といえば(生身の)釈尊以外ない」という大前提に立っているようだ。
しかし、それでは釈尊が何のために仏法を説いたのか、わからなくなってしまう。自分と同じ「不死の境地」を教えるために、仏法を説いたのだから。
釈尊と同じ悟りを得た人は必ずいるはずです。

斉藤: その人も「仏」ですね。

名誉会長: そうです。

須田: 法華経を編纂した人も「仏」でしょうか。

名誉会長: そう言ってよいでしょう。

遠藤: ではなぜ、「(歴史的)釈尊が霊鷲山で説いた」という形式になっているのでしょうか。

名誉会長: そういう伝承があったのかもしれないし、何よりも「これこそが釈尊の真意である」という確証を実感していたからでしょう。

須田: 大乗の運動が、紀元前後の数百年をピークとしますと、釈尊滅後、五百年ぐらいでしょうか。「五五百歳」説で言えば、ちょうど「禅定堅固」のころに当たります。

斉藤: 「禅定」の体験の中で、「常住此説法」している「久遠の釈尊」にまみえたと考えられますね。

遠藤: 戸田先生の獄中の悟りも、「霊山の一会、儼然とて未だ散らず」を体験されたわけです。

名誉会長: きょうは仏教史のような話になってしまったが、現代人が法華経を理解するにあたっては、こういう考察も必要だろうね。

遠藤: これまで「法華経の説法」は、『事実』そのものではなくても生命の『真実』なのだ」ということで納得していたのですが、より鮮明になりました。