投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月13日(火)06時44分8秒   通報
斉藤: 「革命(リボリユーション)」は、もともと「ひっくり返す」という意味です。

名誉会長: その一番激しく、一番根本的な「革命家」が日蓮大聖人であり、釈尊と言えるのではないだろうか。
釈尊は、それまでの「神々のための人間」を「人間のための神々」に、ひっくり返した。同時に、人々の信仰心を利用して威張っていた「聖職者(バラモン)階級」を否定し、カーストを否定し、「人間はすべて平等」と宣言し、実行した。

遠藤: 考えてみると、保守勢力から迫害されて当然ですね。

名誉会長: しかし、その仏法も、いつのまにか釈尊の精神を忘れてしまつて、人間主義でなくなっていった。そこへ日蓮大聖人が出現されて、「仏のために人間がいるのではない。人間のために仏がいるのだ」と宣言されたのです。

斉藤: 驚天動地の宣言です。

須田: 「上行菩薩の時代」とは、じつに深い意義があります。

名誉会長: 宗教は社会の根本だから、宗教革命こそ、社会の一切の転倒を正していく「根本の革命」なのです。
ともあれ、誰にせよ、傲慢になった分だけ、自分が「マイナス人間」になっていることに気がつかなければならない。“自分は皆より偉いんだ”と思っている分だけ、人間としではマイナスであり、低いところに堕ちているのです。

遠藤: “我、高し”と思っている分だけ、じつは低いところに堕落しているんですね。

斉藤: エリート意識なんかも、そうです。
先ほど挙げられた弁護士とか政治家、医師、僧侶。また有名大学を出たとか、金もちだとか、一流の会社にいるとか、自分は幹部だとか、何らかのエリート意識。
これらは、「裸の人間性」以外の何かで、自分を「飾り立てている」わけです。
そうではなく、「人間」そのもので勝負せよというのが、法華経だと思います。

須田: 仏の「色相荘厳」さえ否定してしまうのですから、そのほかの「飾り立て」なんか“問題外”ですね。

名誉会長: エリート意識をもっている人間は、捨て身で戦わない。
自分は傷つかないようにして、要領よく、人にやらせて、甘い汁だけ自分が吸おうとする。臆病であり、最低です。
法華経は、日蓮大聖人の仏法は、裸一貫の凡失が「人間」として生き、「人間」として叫び、「人間」として「人間」の幸福のために戦い抜いていくところに本義がある。満身創痍です。難との戦いです。不惜身命です。それ以外に「生きた法華経」はない。
創価学会による広宣流布だって、社会的なエリートがやったのではない。名もなき民衆の肉弾戦で切り開いたのです。
ここにこそ、「神力品」の本当の実践がある