投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月12日(月)09時50分35秒   通報
■ 「毎日」が「久遠元初」

名誉会長: もちろん、その通りです。

須田: そうしますと、この「久遠元初」というのは、もはや「はるかな昔」という意味ではありませんね。時間の枠を突破しているというか、もう「時間の概念」ではないということになります。

名誉会長: そうです。「久遠元初」とは「無始無終の生命」の異名です。
時間論ではなく、生命論です。生命の奥底の真実 —- 無始無終に活動し続けている宇宙生命そのものを指して「久遠元初」と呼んでいるのです。それは「無作三身如来」と言っても同じです。
大聖人は「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」(御書p75)と仰せだ。「はたらかさず」とは、途中からできたのではない、本有ということです。「つくろわず」とは、三十二相八十種好を具足していない、凡夫のありのままということです。
本有常住であり、「もとの儘」です。これを「久遠」という「久遠」とは「南無妙法蓮華経」のことです。御本尊のことです。だから、御本尊を拝する、その瞬間瞬間が「久遠元初」です。
私どもは、毎日が久遠元初なのです。毎日、久遠元初の清らかな大生命を全身に漲らせていけるのです。毎日が久遠元初という「生命の原点」から新たな出発をしているのです。

斉藤: それこそ「本因妙」ですね。

名誉会長: だから「今」が一番大事なのです。「過去」を頼り向いではいけない。振り向く必要もない。未来への希望を大いに燃やして、この「今」に全力を注いで生きる。その人が、人生の賢者です。
上行菩薩への付嘱 —- 末法広宣流布を託したのです。だから「久遠の妙法」の広宣流布へ本気で立ち上がれば、そのとき、生命に「久遠元初の夜明け」が訪れる。
戸田先生はいつも「広宣流布は戸田がやる」と言われていた。「私がやる」と。「人には頼まない」と。そして青年にも同じ大信心に立てと願われていた。
ある時は、二十人ぐらいの青年の集いで、突然、力強く、「広宣流布はおれがやる」と叫ばれた。そして「君たちも一人ずつ言いたまえ」と、一人一人を指さされた。
皆、夢中で「広宣流布は私の手でやります」と申し上げた。なかには弱々しい声もあった。何だろうという驚いたような声もあった。後に退転した人間もいた。
ただ戸田先生は、青年たちに、ご自分と同じ決意に立たせたかったのです。戸田先生の厳愛です。今、私も青年部の諸君に対して、まったく同じ気持ちです。
ともあれ、「上行菩薩」論は、非常に難しいが、法華経の要の中の要だから、頑張って、もう少し、探究を続けよう。

斉藤: はい。確認しますと、法華経では、「久遠実成の仏」から「上行菩薩」へと結要付嘱されますが、その渡された法とは、「法華経二十八品」ではなく、文底の「南無妙法蓮華経」ということになります。

名誉会長: その通りだが、「渡された」というところが、誤解を招きやすい。
上行菩薩は本来、もともと、南無妙法蓮華経の当体です。
もともと持っておられる法であるが、末法に南無妙法蓮華経を弘めていく資格というか、立場を確かに認められているという「証拠」を示す儀式なのです。

遠藤: そうしますと —- また「家督相続」の譬えで恐縮ですが(笑い)、親から財産をたしかに受け渡されましたよという「証文書」のようなものでしょうか。

名誉会長: そう言ってもよいと思う。神力品の文は「証文書」です。「証文書」であるということは、妙法そのものから見れば「迹」です。たとえば、一千万円を親から受けついだとする。それも、一つの「付嘱」です。この一千万円それ自体は「本」です。受けついだという「証文書」は「迹(影)」です。「本」と「迹」には、天地の差がある。
百六箇抄には、こう仰せだ.(「本門付属の本迹」)
「久遠名字の時・受る所の妙法は本・上行等は迹なり、久遠元初の結要付属は日蓮今日寿量の付属と同意なり」(御書p865)
難しいが、要するに、久遠以来、名字即の凡夫のまま日蓮大聖人が南無妙法蓮華経の本法を所持しておられる。それが「本」。それから見れば、法華経の経文上の上行菩薩等の儀式は「迹」になる。経文は、大聖人が事実として妙法を広宣流布されるための「予証(あらかじめ出す証拠)」であり「文証」 です。
「南無妙法蓮華経如来」が、法華経二十八品というスクリーンに「影」を映した結果、久遠実成の釈尊(仏界)や上行菩薩(九界)の姿になったのです。だから、どこまでも妙法が「本」、上行菩薩は「迹」です。