投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月11日(日)17時10分29秒   通報
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「高橋入道殿御返事」から
仏在世の一切衆生は過去の宿習有つて仏に緑あつかりしかば・すでに得道成りぬ、我が滅後の衆生をば・いかんがせんと・なげき給いしかば八万聖教を文字となして・一代聖教の中に小乗経をば迦葉尊者にゆづり・大乗経並びに法華経涅槃等をば文殊師利菩薩にゆづり給う、但八万聖教の肝心・法華経の眼目たる妙法蓮華経の五字をば迦葉・阿難にもゆづり給はず、又文殊・普賢・観音・弥勒・地蔵・竜樹等の大菩薩にもさづけ給はず、此等の大菩薩等の・のぞみ申せしかども仏ゆるし給はず、大地の底より上行菩薩と申せし老人を召しいだして・多宝仏・十方の諸仏の御前にして釈迦如来・七宝の塔中にして妙法蓮華経の五字を上行菩薩にゆづり給う  (御書p1458)

通解
釈尊と同時代の人々は、過去に仏と巡りあった宿習があり、仏との結縁が厚かったので、釈尊の時代に成仏することかできた。(それでは)私(釈尊)の滅後の衆生の救済をどうしようかと嘆かれ、(そのために)八万聖教の教えを文字に残し、一代聖教の中で小乗経を迦葉尊者に譲り、大乗経や法華経・涅槃経などを文殊師利菩薩に譲られた。ただ八万聖教の肝心の教えであり、法華経の眼目である妙法蓮華経の五字については、迦葉・阿難にも譲られることはなかった。また、文殊・普賢・観音・弥勒・地蔵・竜樹らの大菩薩にも授けられることはなかった。これらの大菩薩たちは、譲られることを釈尊に望んだか、仏は許されなかった。(かわりに)大地の底から上行菩薩という老人を召しだして、多宝仏・十方の諸仏の前で、釈迦如来は七宝の塔中の中において妙法蓮華経の五字を上行菩薩に譲られたのである。
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名誉会長: すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があったということになる。これでは「無始無終の宇宙と一体の仏」はいないことになってしまう。

須田: たしかに、途中から出現したのでは「三世常住の仏」とは言えません。

遠藤: 始成正覚の釈尊は「本無今有〔本無くして今有り)」と破折されました。“根無し草”のようなものだと。
しかし、「途中から仏になった」という点では、寿量品の「久遠実成の釈尊」も、ただ時間をはるかにさかのぼったというだけで、同じです。
厳しく言えば「本無今有」であって「本有」ではありません。

斉藤: 「本有」でなければ、三世常住の「本仏」とは言えません。

名誉会長: 今回は大事なところだが、それだけに難解だね。「難しい」と思う人は、飛ばして読んでもいいし(笑い)、一生かかって、ゆっくり勉強すればいいのです。
理屈がわからなくても、要は、お題目をあげる大事さがわかっていればいいのだから。

須田: そう言われると安心します(笑い)。

名誉会長: もとに戻ると、「宇宙と一体の無始無終の根本仏」を説くためには、二つの方法しかない。
一つは、因果を無視することです。因とか果とか言わなければ、単に「無始無終の仏」と言っておけばすむ。因果を言うから、「仏果を得る前」が問題になるのだから。
しかし、因果を無視したのでは仏法ではなくなってしまう.因果を鋭くからこそ仏法なのであって、因果を無視すれば外道です。なかんずく「仏因」「仏果」が、仏法のメーンテーマです。
大乗仏教そのものも、釈尊滅後、釈尊を仏にならしめた「仏因」は何だったのか、その探求がテーマだったと言えるのではないだろうか。

斉藤: はい。もはや釈尊がいない以上、釈尊を仏にした「仏因」をつかむことで、自分たちも仏になろうとしたと考えられます。

名誉会長: 言い換えれば、釈尊の生命の「本質」の探究です。その結果、さまざまなかたちで、“永遠性の仏”を説くことになった。

須田: 「生身」の釈尊に対して、永遠性の「法身仏」を説いたのもそうですね。
そこから、三身論(法身・報身・応身)をはじめ、さまぎまな「仏身論」が議論されていきます。

遠藤: 大乗仏教のさまざまな仏 —- 華厳経の盧舎那仏、浄土経の阿弥陀仏(無量寿仏)、大日経の大日如来なども、「無始無終の根本仏」を志向しながら、その一面、一面を説いたと言えるかもしれません。

名誉会長: しかし、どんなに“永遠性の仏”を説いても、そこには大きな限界があった。一つは、壮大で華麗な仏の世界を説く結果、「人間・釈尊」から大きくかけ離れてしまったこと。これは「人間」そのものからかけ離れてしまったことを意味する。
もう一つは、今、論じている「因果」の問題です。「仏因」が先にあって、「仏果」が後に来るというのでは、どうしても、“何らかの時点で”仏が出現することになる。
要するに、無始無終の仏を説くためには、「仏因(囚行)」に「仏果(果徳)」を認めなくではならないのです。これが、三世常住の本仏を示すうえでの第二の道であり、「唯一の道」です。

斉藤: 理論的には、どうしてもそうなります。

名誉会長: この「因位(仏因の位)の仏」 —- それが上行菩薩です。「因果倶時の仏」です。上行菩薩が出現しなかったならば、無始無終の本仏は示せないのです。
上行菩薩の出現は、五百塵点劫という想像もつかない過去をも突破した「無始無終の久遠の本仏」を指し示しているのです。

須田: これまで、わかったつもりで、あいまいだったことが、かなりはっきりしてきました。この「無始無終の本仏」とは、私たちが「久遠元初の自受用報身如来」と呼んでいる「南無妙法蓮華経如来」のことですね。