投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月11日(日)11時44分23秒   通報
■ 上行菩薩は「菩薩仏」

名誉会長: さあ、そこで、「如来のすべてを受けとり、身に体している菩薩」とは、一体、いかなる存在なのかということです。通常、「菩薩」と言えば、成仏を目指して修行している存在です。しかし、明らかに「上行菩薩」は、そうではない。「如来のすべて」を全身に体していて、なおかつ「菩薩」と呼ばれている。
上行菩薩は「菩薩仏」なのです。父子相続の話があったが、父子は一体であり、父が仏であれば、家督のすべてを譲られた子もまた仏でなければ、話がちぐはぐになる。

遠藤: たしかに国王から国を譲られたら国王です。

名誉会長: 上行菩薩はじめ地涌の菩薩は、出現の時から、すでに「身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」(法華経p474)と説かれていた。

須田: 「三十二相」というのは「仏」の特徴です。地涌の菩薩が仏であることを示していると思います。

斉藤: しかも、釈尊よりも立派に見えた。釈尊が、まだ青さの残る二十五歳の青年とすれば、荘厳な百歳の翁に見えたと説かれています。

名誉会長: だから神力品の結要付嘱の儀式は、本来は「仏」から「仏」への儀式なのです。唯仏与仏(ただ仏と仏と)の境涯です。ではなぜ、上行は菩薩として現れているのか。
それは、ひとつには、「一世界には一仏」という原則を破らないためとされる。二仏が並び立つと、皆に混乱を起こさせるからです。
斉藤: 上行菩薩は“釈尊の説法を助ける”ために弟子の立場をとっているということですね。

遠藤: 地涌の菩薩が出現したことによって、弥勒菩薩をはじめ皆が驚いて、そこから寿量品の説法が始まるわけですから、たしかに説法を助けたわけです。

名誉会長: しかし、上行菩薩がどこまでも「九界の立場」で出現したことには、さらに重大な意義がある.これは全仏教史を大転換させる重大事です。それは、「因行(仏因)」の中に「果徳(仏果)」を認めるということです。それまでの仏教は、どこまでも「仏果」が勝れ、「因行」は劣っているとした。ある意味で当然でしょう。

遠藤: 「九界」よりも「仏界」が上とするのは当然と思います。

名誉会長: しかし、上行菩薩の出現によって、「因行(九界)」に「果徳(仏界)」を含むことになってしまった。これがなぜ大切なのか。
寿量品の説法を思い出してみよう。釈尊は五百塵点劫の太古に成仏したと説いた。これは、全宇宙のすべての仏は、その久遠実成の釈尊の弟子だということです。それでは、「その前」はどうだったのか。

斉藤: 「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますから、五百塵点劫以前は、菩薩の修行をしていたことになります。