投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月22日(木)13時13分51秒   通報

大聖人は、設定した問いに答えて「般泥洹経」に説かれる
過去の宿業による八つの報いを記す一節を引用しています。

「『善男子過去に曾て無量の諸罪種種の悪業を作るに是の諸の罪報は
或は軽易せられ・或は形状醜陋・依服足らず・飲食麁疎・財を求むるに利あらず・
貧賤の家邪見の家に生まれ・或は王難に遇い・及び種種の人間の苦報あらん。
現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり』云々、此の経文・日蓮が身に宛も符契のごとし」(同頁)――と。

大聖人みずからが言うように、佐渡の流人としての境遇にぴったりと符合します。

しかし、「現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る」とあるように、
法華経を護持してきた功徳の力によって、現世の業報を軽く受けることができ、命をつないでいるというのです。

つまり、佐渡の流人生活は功徳の結果だということです。

仏法の次元からいえば、
むしろ逆境は自分が成長するチャンスだという大聖人の人生観がよく現れている一節だと思います。

この「宿命転換の原理」と密接な関係にあるのが不軽菩薩です。

大聖人は開目抄のなかで
「不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに瓦石をかほるとみえたり」(二三一頁)
と、自身を不軽菩薩に重ね合わせています。

「不軽菩薩は今の教主釈尊なり」(一二一五頁)――。

つまり、釈迦仏は過去世において法華経誹謗の罪を犯した不軽菩薩であり、
その宿業を滅して今は教主釈尊となっている、という図式は、

大聖人自身が過去世において法華経誹謗の罪を犯し、その宿業を竜口の法難・佐渡流罪によって、
すべて滅しようとしている、という仏の次元での同列化を示しているといってもいいでしょう。