投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月22日(木)13時13分9秒   通報

大聖人は文永九年五月に、門下であった富木常忍にこんな手紙を送っています。

「日蓮が御免を蒙らんと欲するの事を色に出す弟子は不孝の者なり」(一三九頁)――と。

色に出すとは「行動に起こす」つまり、赦免運動をするということです。

大聖人が「不孝の弟子」と言って厳しく戒めたのは、
師に一日も早く戻ってきてほしい、という弟子の思いを非難したのではなく、
幕府に向かって行動を起こすような政治的な解決方法に対してでした。

つまり、弟子による赦免運動は、師の心に反する行為だったのです。

それに大聖人は、佐渡流罪に対して「無念だ」とも「不本意だ」とも
一切、幕府に対して恨みがましい思いは持っていませんでした。

だから大聖人自身が、赦免に向けて行動を起こすことなどまったく考えていなかったのです。

師が望まないことをやろうとする弟子は「不孝の弟子」といわれても仕方がありません。

もし大聖人が「逆境」の原因を鎌倉幕府のせいだと捉えていたら、
門下の一部にあった赦免運動を指揮して裁判のやり直しに奔走していたでしょう。

大聖人は佐渡流罪を仏法の眼からとらえ続けました。それは佐渡期の文書に一貫して流れています。

そして、この逆境の原因を幕府の理不尽な処断という外側に求めず、内に求めたのです。
それは「内省(自分の考えや行動などを深く かえりみること)」への深い思索の始まりでした。

その内省は「宿業論」と「不軽菩薩」への着目だったのです。
大聖人は逆境の原因を「宿業」にあると捉えたのです。

宿業は当時の人々の間では常識的な思想でした。
武士やその妻たちが余生を仏門に身を投じ、入道したり尼になるのは、
過去世から現世に積んできた罪業を消し、来世を期するためでもあったからです。

大聖人が「業」について自身の身に引き当てて説いたのは、
同じ法難の嵐に動揺する門下が、信仰の次元で乗り越える大切さを知ってほしいからでもあったと思うのです。

開目抄には
「疑つて云わく、いかにとして汝が流罪・死罪を過去の宿習としらむ」(二三二頁)

という問いを設定していることからも逆境を信心の問題と捉えていることがわかります。