2015年10月11日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月11日(日)16時45分25秒 通報 投稿者:京都乃鬼 投稿日:2015年10月10日(土)21時11分14秒 ■「真言さえ認めれば、それぞれの信仰を認めるという発想は、自由なようでいて、 いずれは、多信仰、雑信仰に落ちていき、やがては宗教の根幹にある志ざしをも腐っていくと思います。」 と言うたはるけど、 ■「古来から日本の仏教には、もともと仏や菩薩が民衆を救うために、いろいろな姿で現れるという 『本地垂迹』という伝統的な思想がありました。(中略)日蓮仏法にも、この『本地垂迹』の思想があります。」 この違いを教えて欲しいんですわ。 ————————– いつものように、また鬼さんから鋭い質問を頂きました。笑 コワー 確かに上記の文面を相対すると、日蓮大聖人と良観の思想が同じように映りますね。 説明不足でした。 もう少し詳しく解説していきたいと思います。 まず結論から言うと、良観の他宗を包括していく思想と、大聖人が他宗を包括していく思想は、 どこがどう違うのかというと、「質」が違うということです。 端的に言うと、 良観の包括主義の目的は、名聞名利のためであり宗教ビジネスのためです。 大聖人の包括主義の目的は、民衆を救うためであり法華経の精神に適った思想です。 実行している事実は同じでも、真実は違うということです。この2つを説明していきます。 Tweet