投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月10日(土)13時40分11秒   通報

池田先生は、キリスト教の神学者、儒教の知識人、マルクス主義を奉ずる政治家、
中国の著名な仏教学者、東南アジアのイスラムの指導者等々、次々と対話の機会を持ち、
数多くの対談集を発刊してきました。

池田先生が対話する相手、それは主義や信条といった思想の服をすべて脱ぎ捨てた裸の人間、生活者としての人間です。

しかしこれは、自らの信仰を捨ててまで、人間対人間の話し合いを行う、という意味ではありません。
仏法はむしろ、生活者としての人間を無二に尊重する哲学です。

小説『新・人間革命』第19巻には、人間主義の対話を広げゆこうとする池田先生の決意の言葉が、次のように綴られています。

「人間の救済を掲げてスタートした宗教が、やがて異教徒を迫害、弾圧したり、
宗教同士が戦争を引き起こしているのが、残念ながら人類の歴史といえる・・・・

人類の未来を考えるなら、宗教差別や宗教戦争を根絶していくために、
人間という原点に立ち返って、宗教間、文明間の対話を展開していくことが、何よりも重要な課題になる。

その突破口を開いていくのが、仏法者としての私の使命であると思っている。
仏法の本義は、一言すれば、《人間宗》ともいうべき、人間生命の尊重の思想だからだよ」(p195~)。

「人間宗」である仏法が、一種の仲介者となって諸宗教や、諸文明を人間の次元で結びつけ、融和させていくこと。

池田先生による対話運動の根本的な意義は、そこにあると確信します。

また、それは極悪人に対しても変化の可能性を信ずる、ということでもあります。
つまり、池田先生にとっては、反人間主義も生かすべき存在なのです。

池田先生から見て、不当な「破門」を行った日蓮正宗。
この既成仏教の権威と戦う意義を語った次の言葉は、それを証明するものだと思います。

「広宣流布を破壊する仏敵とは、絶対に妥協してはならない。徹底して戦い、破折し、打ち負かして、
その末路を歴史に刻んでいくことこそ、真の慈悲である」(聖教新聞2007.8.28付)。

「仏法破壊の者とは断じて戦いぬく。いつわり親しんではならない。それでなくては、かえって《敵》となる。
妥協してはならない。はっきり言ってあげることが、仏法の慈悲にかなう実践であり、相手を守ることになる」
(池田大作全集第79巻p168)と――。

悪を打ち破って、初めて善の意味が明らかになります。
その意味では、悪は善の顕揚のために、生かさねばなりません。

また、打ち破られた悪が、自己を悪と認識すれば、もはやそれは、悪ではありません。
氷が水であると知れば、あとは氷を溶かせば良いのです。氷は氷の中身のまま水となります。

そのように、悪人は自らを変えずに蘇生します。
池田先生が信ずる人間の変化の可能性です。
万人が己の本性を真に生かす可能性です。

善を輝かせ、悪を善化するために戦う、それが仏法本来の慈悲ではないか、と池田先生は訴えているのです。

最後に、グリグリも直接、池田先生にお会いして、先生の「師子吼」を聞いた一人です。

池田先生 「君たちは私についてきなさい。学会は永遠に『人間学会』で行く。いいね !」

グリグリ 「はい」

この誓い破るべからず――。

暴力を用いず、非暴力を貫く。人間主義の戦いは、善悪ともに「生かす」戦いなのです。

― おわり ―