投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月10日(土)13時39分11秒   通報

大聖人は、法然の排他主義に応戦しましたが、その応戦は常に非暴力でした。

そして、日蓮教団は存命中に何度も暴力的な攻撃を受けましたが、
日蓮教団側から報復的な暴力を行った形跡は見当たりません。

つまり、歴史的な認識として、大聖人は終生、暴力の加害者ではなく、被害者の側にいたのです。

そしてまた、この言論の応戦は、人間生命の本源を否定する思想との戦いだったとも言い換えられると思います。

「法華経」は、永遠の仏による自在な教化の姿(寿量品)を通して、自由自在の生命自体を説き教えています。
この自由自在の生命の主体は、宇宙の本質にして人間生命の本源(仏界)でもあります。

だからこそ「法華経」の真理への反対は、人間生命の本源の否定につながり、
端的に言えば「反人間主義」の思想と見なすことができるのです。

法然の教説は、
「末法の悪人や愚人が、仏のような自由自在の主体性に立つのは無理だ」と言っているに等しい。

大聖人が戦った相手(仏敵)は、ある意味で、人間の主体性の根源を否定する思想だったのです。

大聖人は、そうした諸宗の主張が自由自在という真の「中道の真理」を蔑ろにして偏った考えに固執し、
結果として「反人間主義」の思想に陥ったがゆえに、警鐘を鳴らし、諸宗批判(折伏)を行ったのだと思います。

戦後の創価学会が日本国内の諸宗派に対して、排他的とも誤解される「折伏」の態度をとってきたのも、
この大聖人の折伏思想が底流に流れていたからです。

今回の考察のテーマは【仏敵に供養すると地獄に行くか否か】です。

仏敵に対する供養があるとすれば「法供養(折伏)」しかありません。
それは、全体主義で見るのではなく、あくまでも、私たちの目線は、一対一の人間です。

仏敵に供養(法・折伏)して地獄に行くか、行かないかは、本人の一心一念による、ということです。

それが強ければ「寂光」だし、弱ければ「地獄」です。