投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月10日(土)13時38分26秒   通報

法然の著作「選択本願念仏集」(岩波文庫版)をひも解くと、徹底した排他主義が見て取れます。

法然はそこで、
真言宗、禅宗、天台法華宗、華厳宗、三論宗、法相宗、地論宗、摂論宗、倶舎宗、成実宗、律宗といった
当時の仏教宗派をことごとく「聖道門」と呼んで無用視し、自らの「浄土門」のみが救いへの道であると訴えました。

「すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし」(p21)

「速やかに生死(苦しみ・迷い)を離れむと欲はば、二種の勝法の中に、
しばらく聖道門を閣いて、浄土門に選入すべし」(p177)

と、法然の選択集の中には、諸経・諸宗排斥の言葉があります。

法然の選択主義は、ただ聖道門の教えを棄てよと勧めるばかりで、
徹底した排他主義の主張であり、大聖人はこれに断固反対したわけです。

大聖人にしても、もとより念仏の価値自体を全面否定するつもりはなかっただろうと思います。

その理由は、法華経の「薬王品」では、阿弥陀仏の住む安楽世界への往生が示されています。
大聖人がこれらの言説に否定的であった形跡は認められません。

むしろ釈尊の分身としての阿弥陀仏なら承認していたと思います。

阿弥陀仏だけでなく、

「大日如来・阿弥陀如来・薬師如来の尽十方(宇宙全体)の諸仏は、私たちの本師・教主である釈尊の従者なのである(通解)」
(法華取要抄p333)

と、大聖人は考えていました。

どこまでも法華経の心に立って、すべてを生かすのが大聖人の立場です。