投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月10日(土)13時35分33秒   通報

日蓮大聖人は、釈尊から始まる民衆救済の原理を説いた「法華経」を中心に、
教義の基盤を天台教学に置いて、これまでの一切の思想(小乗大乗)と
宗教に「究極の真理を認める」という姿勢を貫きました。

大聖人は法華経を含めた一切の思想の完全な無差別と平等を説く
という真理――いわゆる「一切平等観」に立ったうえで、

現象(諸法)世界の「善と悪」をどこまでも変化の相で捉えていたのです。

それは、一般の宗教学者がいう「善悪二元論」的な見方で、大聖人は物事を見ていたのではないということです。

そもそも善悪二元論という概念は、ユダヤ・キリスト教のような唯一の絶対神のみを認める
「一神教」に見られるもので、仏教の場合はそれほど単純ではありません。

多神教的な性格をもつ仏教哲学のなかでも、特に日蓮仏法にはその思想が際立って見えます。

古来から日本の仏教には、もともと仏や菩薩が民衆を救うために、
いろいろな姿で現れるという「本地垂迹」という伝統的な思想がありました。

つまり、日本古来の神々を仏(本地)の化身(垂迹―仮の姿)とする思想に立ち、
土着の神道を一定の範囲につつみ込みながら、「神仏習合(神祇信仰と仏教の融合)」という
宗教の共存を、日本の仏教界は作り上げてきた歴史がありました。

日蓮仏法にも、この「本地垂迹」の思想があります。

たとえば、日本の神を「善神」と称しているし、孔子や老子を「釈尊の御使い」と意義付けています。
また、阿弥陀如来を「釈尊の家来」(法華取要抄)として認めています。

人も、国も、自然も、思想や宗教でさえも、状況次第で「善」にもなれば「悪」にもなる。

日蓮仏法の世界観は、ある意味で「関係主義」なのですから、状況対応的な「善悪観」になって当然です。