投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月10日(土)09時42分3秒   通報

立正安国論の中で、大聖人が幕府に要求したものは2点あります。

法華経への信仰は別にして、1つは「其の施を止む」です。
現実に当時の幕府は、大仏の建造に莫大な費用を注ぎ込んでいたし、多くの念仏寺院を建てて念仏者を財政面で庇護していました。

幕府はそれを止めればいいだけのことです。
それは決して不可能なことではなかったはずです。

また、大聖人もその真意を「全く仏子を禁ずるには非ず、ただひとえに謗法をにくむなり」(p30)と述べています。

幕府は、その政策案に疑問があるなら、大聖人を呼び出して「施止」策を問い、
そのうえで納得できなければ「受け入れられぬ」と拒否すればいいだけの話です。

もう1点、大聖人が幕府に期待したものは、公の場での念仏者との法論対決です。

まさに立正安国論の要諦は、意見の真意を「よく聞いて」、公の場で白黒をつけようとするものです。

これは今日の民主主義においても通じる普遍的なものだと思います。
単純に言えば、大聖人が幕府に求めたものは、この2つです。

立正安国論は、当時の常識において普遍的であったがゆえに、影響もまた、大変なものがありました。

幕府に「立正安国論」を提出されたことによって、追い詰められた法然の浄土宗一門は、面目を失っただけでなく、
鎌倉幕府内でも大きく信用を失い、その影響は鎌倉における浄土宗の自立そのものをおびやかすまでになったのです。

実際に、法然浄土宗の一門は次々と真言律宗を掲げる「良観」のもとに駆け込み、宗旨替えを行っています。

たとえば、北条重時の屋敷であった極楽寺は浄土宗でしたが、重時の死後、良観に寄進され、
真言律宗に変更し、北条実時の称名寺も真言律宗に変更した寺院です。

また、飯島の和賀江島を管理していた光明寺も良観極楽寺の管理のもとに落ちています。

この現象は、決して良観の政治力の力だけではないと思います。

それは浄土宗の寺院の指導者たちが、法然浄土宗では幕府の支持を得られず、
寺院経営が立ち行かなくなることを覚ったからではないかと思われます。

まさに「立正安国論」の影響がここに現れていたのであり、大聖人によって法然浄土宗は完全に追い詰められていたのです。