投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月10日(土)09時41分15秒   通報 編集済

この後の御文には

「これをさとるを仏といふ。これにまよふを凡夫と云う。これをさとるは法華経なり。
もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ」(p1504)

――この言葉の真意を悟った(身読)人が、仏界を我が身に涌現した仏であり、
この言葉が信じられず、迷う人が、仏界を涌現できない凡夫なのです。

その思想を説いているのが法華経であり、法華経を身読すれば必ず仏界が涌現する。

したがって、法華経の精神を信じて実践する者は、たとえ地獄のような所に居ようとも、
そこがそのまま寂光の場所になり安心・安全でいられる。

しかし、法華経の精神から離れて、いくら長い間、仏道修行の実践をしようとも、
歓喜はなく、いつも地獄の苦しみから離れることはできない――(通解)。

と述べられました。

この法華経の精神を、身をもって私たちに教えてくれたのが、日蓮大聖人であり、創価三代の師匠です。

さて、「地獄」という言葉を紐解いていく中で、地獄の本質が見えてきました。
地獄の苦しみに堕ちたと感じるのは自分自身であり、他人には正確にはわからないと思います。

では、地獄は自分の心の中だけで、本当に外にはないのか。
次は、その問題も含めて「仏敵に供養する」を考えていこうと思います。

立正安国論の冒頭は、

「旅客、来りて嘆いて曰く。近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち、広く地上に迸る。
牛馬・巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩、既に大半に超え、悲まざるの族、敢て一人も無し」(p17)

から始まります。

この御文は、あまりにも有名なのであえて通解はいらないと思います。
もうこの一節を読んだだけで、客の心も地獄なら、世間の様相も地獄そのものです。

大聖人が著した立正安国論は、幕府上層部に提出できる「勘文」という形式をとり、
正規のルートを通して北条時頼に提出したものです。

通常、権力者への意見書というものはなかなか受理されるものではありません。

しかし、係官が読み、普遍性を備えたものと判断されたがゆえに受理されたという事実は、
きわめて重要であるし、その意味は大きいと思います。

大聖人が幕府に意見書を提出したのは、端的に言うと「政治と個人の幸福」は、密接な関係にあると見ていたからです。

この思想は、池田先生の「愚かな指導者に率いられた民衆ほど哀れなものはない(趣意)」との言葉と見事に合致しています。

大聖人の生き方は、現実から逃避したり、現実に埋没するような態度ではなく、あくまでも現実を直視し、
その現実の苦悩をどう創造的に変革していくかというところに、その基本姿勢があります。