投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月10日(土)09時40分24秒   通報

まず、冒頭の《仏敵に供養すると地獄に行くか否か》というテーマを考えるにあたり、
「仏敵に供養する」と「地獄に行く」との2つに分けて考えてみたいと思います。

最初に「地獄に行く」ということですが、いったい地獄とはどこにあるのでしょうか。

大聖人は夫を亡くした上野後家尼(時光の母)に対して

「夫れ、浄土と云うも、地獄と云うも、外には候はず。ただ我等がむねの間にあり」(p1504)

――さて浄土といっても地獄といっても外にあるのではない。ただ我等の胸中にあるのです――と述べています。

自分自身の心の中に、幸福な歓喜も、地獄の苦しみもあるという以上、他人が自分の考えを基準として、
あの人は「地獄に堕ちて不幸だ」とか「あの人は幸せだ」と決めれるものではないし、決めるべきではありません。

事実、大聖人が流人の身になり、弟子たちが師匠の身を案じて不安な日々を過ごしたであろう時でも、

大聖人は
「日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず。後生には大楽をうくべければ大に悦ばし」(p237)と開目抄で表明しているし、

諸法実相抄では「流人なれども喜悦はかりなし」(p1360)と述べています。

また、牧口先生も獄中から家族にあてた手紙に

「信仰を一心にするのが、この頃の仕事です。これさえしていれば、何の不安もない。心一つのおき所で、地獄に居ても安全です」
(牧口常三郎全集十巻p273)とあります。

この獄中書簡の一部を見ても明らかなように、独房という地獄に居ても「信心の姿勢」や心境は、
いささかも揺らぐことなく、日蓮仏法の信仰への確信と仏法の正義を死守していました。

まさに「浄土と云うも、地獄と云うも、外には候はず。ただ我等がむねの間にあり」です。