投稿者:ジョーカー 投稿日:2014年11月12日(水)12時18分39秒   通

六巻抄講義 依義判文抄

解説文より
「三大秘法といっても、実体として存在するのは本尊の一大秘法であって、他はこの本尊に関連して出てくるものである。
さらにせんじつめていえば、大聖人が顕現された一幅の御本尊自体に、三大秘法の義を具備している。御本尊の相貌は、中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められており、本尊の義をあらわす。その左右に列なる十界の衆生は中央の本尊に帰命している姿をあらわし、ここに本門の題目をそなえている。そして、御本尊が認められた草木それ自体は、本尊所住の処であり、本門の戒壇の義を示すものである」

つまり、三大秘法といっても、本尊の中に具備されていると
どの御本尊であろうと、三大秘法具足の御本尊であり、尊いものではないか

大石寺の大御本尊も、三大秘法具足の本尊であり、悪いのはそれを取り巻く坊主というだけの話ではなかろうか

今回の改正で創価学会は御本尊の認定をしてしまい、大石寺の御本尊は認定外としてしまった。

学会の本尊と同じく三大秘法を具足した御本尊であるにも関わらず、認定外とすることは、「御本尊差別」ということになりかねないのではないか

そもそもすべての御本尊は尊く、認定・非認定という次元の話ではないのでは

日寛上人は「明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る」と言われている
一方で、「文証無きは悉く是れ邪偽なり」とも言われている

意味は、賢明な者は文が何を言わんとしているのか、その奥底を見極めようとすることに対し、愚者は文言にのみ執着し、その文が説かんとしている思想を見極めようとしない。

だからといって、文がないものは悉く邪であり偽りであるとも言われている

したがって重要なことは、まず文証があるかどうか
これが大前提であり、そして文の真意は何なのかを見極めること

ここから考えると、当然創価学会は正統性を証明する文証を出さなければならない

戸田先生
「教学は日寛上人の時代に還れ」

どんなに時代や状況が変わっても、変わらないものはある
まさか日寛教学を、時代に合わないから捨てるということはないでしょう