投稿者:京都乃鬼 投稿日:2015年11月 1日(日)23時06分1秒   通報

京都乃鬼新聞
2015-11-1

=御祈念文変更についての考察=

弊紙2015年10月29日付の「学会勤行要典、御祈念文を変更へ!」のスクープ記事に関して、各方面から多くの感想が寄せられた。

しかし、その中には教義的な厳密性などに関心もなく、内容のお粗末さにも気づかず「世界宗教にふさわしい」とか「世界広布の新時代」とか、新しそうなイメージに惑わされて、この改訂を歓迎する声まであった。

しかし、本当にそれで良いのだろか?

弊紙の報道通りに御祈念文が変更されるかどうかは、最終的には11月17日に開催される師範会議、最高指導者会議、総務会の協議を経なければ分からない。

しかし弊紙は、これらの会議に参加する事が出来無いので、ここで一石を投じる事で、これらの会議での議論の一助になる事を願い、弊紙の意見を述べたい。

今回削除される予定との情報があった日目上人は、単なる大石寺住職の一人では無い。
大聖人から直に訓練された愛弟子の一人である。
国主諌暁をやり抜いて死んでいった立正安国の闘将である。

大聖人の広宣流布の魂も、日目上人という第三代までは立派に受け継がれた。
しかし、第四代からガラガラと音を立てて崩壊したと私は認識している。
また、五、六、七代と殆ど闘っていない無能の法主が続いていく。

第三代の池田先生も、この歴史を強烈に意識され「私も、創価学会の“第三代”として、いよいよ、これからが本格的な戦いであると自負し、また決意している」(第三回中部総会 平成元年1月29日 )と言われている通りである。

今回の第三代目の日目上人の削除は、創価学会の“脱池田化”を暗示するものではないだろうかと危惧するものである。

池田先生が日目上人について語られたスピーチを紹介しておこう。
第十回本部幹部会
昭和63年10月19日
 さて、一閻浮提の御座主であられる第三祖日目上人のお振る舞いを拝するとき、つねに後継の青年の訓育に全力で当たっておられた。
次元は異なるが、私も学会の第三代として、広布の流れを永遠たらしめる責任を自覚していた。ゆえに青年の育成に徹しぬいた。私には、懸命に弟子を育てんとされる日目上人のお心が強く深く胸に迫ってくる思いがする。
御遷化の一年前、日目上人は、お手紙の中で次のように記されている。
「今年も四月より九月廿日比まで闕日なく御書談じ候い了ぬ」(『歴代法主全書』)
—今年も四月から九月二十日ごろまで、一日も欠かすことなく、御書を講義いたしました—-と。
このとき、実に、日目上人は73歳であられた。それに比べ、私どもはまだまだ若い。戦わなければならない。否、日目上人のお姿を拝して、一生涯、若々しく、広布に進んでまいりたい。
また、別のお手紙の中でも、こう述べられている。
 「越中公、如法慇懃太公望になりて候。春はぐしてわたらせ給候へ。学問せさせ候べく候」(同前)と。
 すなわち、あなたの後輩にあたる越中公は、法にのっとって正しく、また一生懸命に修行しており、将来、有望である、と期待され、「春には一緒に、こちらに連れていらっしゃい。しっかり学問させましょう」と配慮されたお言葉である。
若き門下の一人一人を、日目上人が、どれほどよくご覧になっておられたか。その成長に、どれほどカをつくしておられたか。このご精神を深く拝さねばならない。
指導者は、後輩を自分以上の人材に育てようとする、その心が要である。その一念なくして、後輩をうまく使い、利用するのみの先輩であっては、いかに言葉たくみに指導しようとも、仏法の世界のリーダーではない。
後輩に対し、どれだけ、こまやかに面倒をみたか。ある意味で、自分が倒れるような思いで、心を砕きに砕いてこそ、初めて次が育つ。
そこに「令法久住」「広宣流布」の道が開ける。また、この法のための不惜の一念にこそ、日目上人のご精神があると拝される。

第四回全国婦人部幹部会
昭和63年11月24日
第三祖日目上人が門下に送られたお手紙の中に、次のような一節がある。
 「昨日伊賀房をまいらせしかども、かんびゃうのために上総房も用にや候とてまいらせ候」(『歴代法主全書』)
—昨日、伊賀房を、そちらにつかわしましたが、看病のために、上総房も役に立つであろうと思い、つかわします—-。
 日目上人は、病に伏していた門下のために、相次いで二人の弟子を看病に行かせている。一人では何かのときに心配があるし、二人いれば、日目上人に病状を報告することもできるであろう。そうした、まことに細やかなお心づかいが拝されてならない。
むろん、次元は異なるが、私どもも、病気に悩む同志に対しては、心を砕にくだいて守りあい、激励していくことが大切である。
 ただし、病院での看護も整備されている時代にあっては、だれもかれも見舞いに行くことだけが、真心ではない。むしろ、病院には行かないで、自宅等で題目を送ったほうが価値的な場合も少なくない。ともあれ、人情の機微をふまえた励ましを、お願いしたい。
 ここで、もう一通、日目上人のお手紙を拝しておきたい。これは、磐城国(福島県)菊田の地の門下・四郎兵衛に送られたものである。
奥州(東北)は、日目上人が青年時代から弘法のために何度も往復された、思い出の天地であった。四郎兵衛もその折に日目上人に教化された一人のようである。
私どもの法戦にあっても、各地にその思い出をもっている人は幸せである。どこにも、心許せる同志がいるし、それが無量無辺の福運を積んでいる証でもあるからだ。
さて日目上人は、次のように述べられている。
 「せうにのきみはがくもんもし候。きゃうもし候。よにねんごろに候なり。よくよくがくもんせさせてまいらすべく候」(『歴代法主全書』)
—少弐公は学問もしております。今日もしました。たいへんに一生懸命です。さらに、よくよく学問させていきたいと思っております—-と。
この少弐公は、お手紙をいただいた四郎兵衛の縁故の青年であった。郷土の人々の大いなる期待を受けながら、日目上人のもとへ修行に馳せ参じた青年であったのであろう。
日目上人は、その勉学のようすを「一生懸命がんばっていますよ。大切に伸ばし、育てていきますよ」と、郷里の人に伝えてくださったわけである。
何気ない一文かもしれない。しかし、先日も申し上げたように、後継の青年を宝のように慈しみ、育まれた日目上人の深甚のお心がしみじみと拝される。
 また次元は異なるが、青年を愛し、あたたかく見守り、育成されている婦人部の皆さま方の姿も、私には思いおこされてならない。
日目上人は次いで、この四郎兵衛にこう述べられている。
「さいしょうのあさり、いたわりがおこり候て大事に候ほどに、さばくのゆへまかり、二七日ばかり候はんずらん。それらに候らん法花衆たちにそうじせさせ給候べく候」
—宰相阿闍梨(日郷)が病気になってずいぶん重いので、そちらの「さばくのゆ」に湯治に行き、二週間ほど滞在することになるでしょう。そちらにいる法華衆の方々に、その宿舎の掃除をしていただくようお願いします—。
ちなみにこの「さばくのゆ」とは、かつて大聖人が御入滅の前に向かわれようとした「常陸の湯」(現在のいわき市・湯本の温泉)のことであると、日亨上人は示されている。
いずれにせよ、日目上人は、病気に苦しむ門下を湯治へと送りだし、その宿舎の掃除などの細かい点まで気を使われているのである。広布の活動にあっては、こうした細かい心くばりが大事である。それができてこそ、本当の指導者といえる。
 私が、このように日目上人についてお話をするのは、第三祖であられるし、大聖人の御遺命である広宣流布のために42度に及ぶ諌暁をなされ、最後は、天奏の途次、厳寒の美濃の垂井で御遷化なされた日目上人のことを、よく知っていただきたいからである。
 さて私どもがこれまで、繰り返し拝してきた「異体同心事」には、次のように仰せである。
「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし、譬へば多くの火あつまれども一水にはきへぬ、此の一門も又かくのごとし」(御書1463頁)
—日蓮の一門は異体同心なので、人数は少ないけれども大事を成就して、必ず法華経は弘まるであろうと思われる。悪は多くても一善に勝つことはない。たとえば、多くの火が集まっても一水によって消えてしまう。この一門もまた同様である—と。
第二祖日興上人の後を継がれた日目上人は、この大聖人の仰せのままに一人一人に光をあて、「異体同心」を図られながら、令法久住への揺るぎない基盤を築かれたのである。
世間でも、よく“第三代で決まる”といわれる。発展するにしても、衰退していくにしても、その分岐点は“第三代”にある、ということであろう。
学会もまた、第三代の私の時代に一切が決まってしまうとの決意で、法戦を展開してきた。そして、組織的にも人材の面でも、万年への盤石な基盤を築き上げてきたつもりである。

第三回中部総会
平成元年1月29日
中部といえば、私どもにとって永遠に忘れられない歴史がある。いうまでもなく第三祖日目上人の有縁の天地であることである。
元弘三年(1333年)、厳寒の11月(現在の12月中旬)、日目上人は京都への諌暁のため、この中部の大地を踏まれていた。東海道を三河の豊川、岡崎へ、さらに尾張の熱田、一宮へと。
この年の5月には鎌倉幕府が滅亡し、6月にいわゆる「建武の新政」が始まっている。まさに時代が大きく移り変わるカオス(混沌)の渦中であった。そこにはすでに、その後60年近くにもわたって続く南北朝内乱の火種がはらまれていた。
民衆の安穏と幸福は、あまりにも遠く、人々を救う真実の正義がどこにあるのか、闇はあまりにも深かった。その真っただ中を、日目上人は、大聖人そして日興上人の御心のままに、「立正安国」への壮絶なる戦いに、一人立ちあがられたのである。
どこまでも「師弟」の精神に生きる崇高なお姿であられた。時に日目上人は74歳。付き従うお供は、わずか二人であった。
しかも、すでにお体はかなり衰弱されていた。ご出発前の、あるお手紙にも「是も左つぶふしを十余日やみて、右のそばはらを労候也」(『歴代法主全書』)
—左足のくるぶしを十余日ほど病み、右のわき腹をわずらいました—と記されている。
 足の痛み。それは、幾たびにもわたる奥州(東北)弘法をはじめとする転教の旅、また42回にも及ぶといわれる京・鎌倉への諌暁など、奔走につぐ奔走の結果であった。その痛み、疲れ、凍える高齢のお体にもかかわらず、日目上人は決然と旅立たれた。そして前へ、また前へと歩みを続けられた。
そのことを思うとき、私どもは、まだまだ若い。そして“進まざるは退転”であり、生涯、最後の一歩まで、ともどもに広布への今世の旅を歩みぬいてまいりたい。
私も、創価学会の“第三代”として、いよいよ、これからが本格的な戦いであると自負し、また決意している。
日目上人は、ここ中部の美濃の国(岐阜)・垂井の地で、ついに御遷化なされた。11月15日のことである。
戸田先生は論文「創価学会の歴史と確信」の中で、次のように述べられている。
「学会員は、ご老齢の身をひっさげて大折伏の途上、お倒れあそばした日目上人のご命を命として、宗開両祖(=大聖人・日興上人)にむくいたてまつらんとしなければ、成仏はかないがたしと知らなければならない」(『戸田城聖全集 第三巻』)と。
ここに学会精神の骨髄がある。戸田先生の、そして日目上人と同じく数えの74歳で殉教なされた牧口先生の「大確信」がある。また「大闘争心」がある。
 まさに日目上人の死身弘法の「道」に、学会はまっすぐに連なっている。そして今も続いている。ここに学会の誉れがあり、限りなき前進の魂と命がある。
 この「道」をともに行くゆえに、確実に成仏の方向へ、常楽我浄の金剛の境涯へと進んでいくことができる。またこれだけの発展を遂げることができた。この「道」をはずれ、退していったならば、それは永遠の苦悩と悔恨の自身となろう。
ともあれ、この“我等の決めた道”を、何があろうとも堂々と、胸を張り、立派に歩みきってまいりたい。その人こそが大聖人、日興上人、日目上人から最大に称讃される人であるにちがいない。
そして、どこよりも、日目上人有縁の中部の友こそ、この“信念の旅路”の模範の勝利者であっていただきたい。

記念関西支部長会
平成元年2月2日  弘安六年(1283年)、大聖人御入滅の翌年のことである。大聖人の第百日忌法要を終えると、日目上人は、師・日興上人に、みずから奥州へ弘法に出ることを願い出た。時に、日目上人は24歳—。
ご存じのように、大聖人の御入滅後、各方面の責任者である五老僧は、いずれも大聖人の御遺命に背き、だんだんと勝手な振る舞いを始める。彼らは、正しき「師弟相対」という根本の軌道を踏みはずし、エゴと保身と野心のままに迷走していった。
仏子が言い尽くせぬ苦労を重ねて築きあげた“法城”が、外ではなく、まさに内部から崩されようとしていた。
そうした渦中、日目上人は、すべての逆境を弾き返すような大情熱を、胸にふつふつと燃えたぎらせておられたにちがいない。
奥州は、兄・新田次郎頼綱らが住むゆかりの地であり、一族も数多くいた。が、妙法の勢カは未だないに等しく、他宗が深く根を下ろしていた。そこへ、あえて日目上人は旅立たれた。師弟の道に徹する青年僧の、炎のごとき気概が拝されてならない。
当時は、奥州までの道のりは約三週間。むろん、徒歩である。
今なら、電車に乗って、のんびり本でも読んだり、景色を眺めながら旅ができるが、昔はそうはいかない。
 険難を越え、大河を越えての、まさに苦行の旅である。それを厭わず日目上人は、幾度となく奥州に足を運ばれ、弘法の波を起こされていった。
日目上人によって妙法に目覚めた奥州の門下に対して、日興上人は、大石寺開創以降、毎年のように御本尊を授与され、それは現在でも約30幅以上が残っているといわれる。妙法の種子は、深く、たしかに、みちのくの大地に植えられていた。
広布は常に、だれに頼まれるのでもない。自発の一念によって開かれる。
私も青年時代、戸田先生に「関西が大事です。交通費なども全部自分で工面しますので、ぜひ行かせてください」とお願いし、何回もこの地に来させていただいたことを、懐かしく思い出す。
ともあれ、いかなることがあっても、萎縮してはならない。常に獅子のごとく、赫々たる生命で前進していく—-ここに、広宣の魂があり、信仰の精髄がある。
私どもは、どのような策や誹謗があったとしても、わが信仰の大道を、大胆に、また堂々と進んでいけばよいのである。清き信心の世界を、悪意に蹂躙させては絶対にならない。
皆さまは、末法万年の広布の揺がぬ土台を作り、人類待望の新しい理想の舞台を開こうとされている。それは、あまりにも尊く、すばらしき使命であり、人生である。この道を歩み抜くならば、限りなくわが生命の境涯を広げ、福徳を薫らせていけることは間違いない。

創立六十周年開幕記念支部長会
平成元年7月27日
さて、さる5月には東北最高会議が開催され、“楽しい東北、楽しい同志”のスクラムで、2001年をめざして900支部建設への堂々たる前進が始まった。
 東北にゆかりの深い「一閻浮提の御座主」たる第三祖日目上人も、このような東北の妙法興隆の姿をいかばかりお喜びくださっていることか、と思われてならない。
ご存じのように日目上人は、その若き日より「みちのく」に何度も足を運ばれ、妙法広布の新しい天地を開かれたのである。日目上人が、この「みちのく」の庶民の仏子をどれほど慈しまれ、大切にされたか。その仏子の清らかにしてうるわしい世界を守りぬくために、どれほど心をくだいておられたか。本日はその一端を、一つのエピソードをとおして拝しておきたい。
日興上人の講義中に、庭の梨の木の葉が落ちるのをよそ見していて叱責を受け、その後12年間にわたって勘当された日尊のことは、これまでも何回かお話しした。
その日尊が、奥州で布教中に、神社への参詣を認める発言をしたことが伝えられている。もちろん、神社参詣が謗法であることは、大聖人の教義に照らして明白である。日尊が僧として指導的立場にあるだけに、その言動の狂いは実に大きな影響をもたらしてしまう危険があった。
大聖人は、根本の教義に関して絶対に妥協されなかった。謗法に対しては断乎として弾劾、呵責されている。
日尊の発言は、生命に染まった我見と謗法の表れであり、世間の風潮に言葉巧みに迎合したものでもあったろう。いつの時代にも、どこの世界にも、自分のために権威を利用しつつ“柔軟さ”や“幅広さ”をよそおい、人々を根本の軌道から逸脱させていく人間がいるものである。
だが、このとき奥州の又六という信徒が、“それは自分たちが日目上人から学んできた大聖人の正法正義に反する”と声を上げたのである。
「立正安国論」に説かれた「神天上(世の人々が正法に背くとき、諸天善神は守護の国土を捨てて天に上がってしまうこと)の法門」を又六は知っていた。奥州の門下に対する日目上人の行学の薫陶は、それほどまでに隅々に行き届いていたのである。
教学をしっかり研鑚していなければ、仏法の正邪を見きわめることができない。私は東北最高会議の折、教学部員12万人の提案をさせていただいたが、こうした歴史を踏まえてのことである。
とともに、次元は異なるが、私どもの広布の世界にあっても、言うべきことは言っていくべきである。疑問や悩み等をかかえたままでは、皆が思う存分に力を発揮することはできない。
とくに活動の第一線でいちばん苦労されているのが婦人部の方々であり、幹部は、婦人部の意見を十分にくみとっていかれるよう、強くお願いしたい。
なお、「神天上の法門」に関連して、日昇上人は、昭和29年(1954年)11月18日、牧口先生の法要の折、次のように述べられている。
「創価学会の皆様と共に題目を唱えることが出来た事を嬉しく思います。私は牧口先生とは常泉寺で初めてお逢いしました。もう一度は本山に於て神札問題が起こった折に先代牧口先生と戸田先生にお逢いしました」
「爾来、創価学会の活動も隆盛に向かい『神天上の法門』が官憲の忌む所となり遂に牧口先生は、東条政府の弾圧に逢い大法弘通のために牢死されました。その宗門のために尽くされた御功績は熱原法難の神四郎にも比すべきものであります。その後を継いで現戸田会長がたたれ創価学会も益々隆盛になり、さぞ牧口先生も御満足の事と思います。この精神をどこまでも続け、大法弘通に邁進されんことを切にお願い致し御挨拶と致します」(「聖教新聞」昭和29年11月28日付)
初代牧口先生、第二代戸田先生の先駆の功績をたたえられ、学会への期待をこめられたお言葉である。  私どもは、何があってもこの学会の誉れを忘れてはならない。少々の難や圧迫など歯牙にもかけず、「大地を的とするなるべし」(御書1360頁)との広宣流布への大聖人の御確信のままに、誇り高く進んでいけばよいのである。私は、牧口先生の遺志を継がれた戸田先生の弟子として、覚悟の信心に徹してきたつもりである。
さて、又六にみずからの誤りを質された日尊であったが、彼は正論に耳をかたむけようとしない。門下の庶民をバカにし、見くびっていた。
日尊は当時、四十代半ば。“自分は僧として、天台数学までも修めている。また数多くの寺を開いた功績もある”といった傲りが、その心を濁らせていた。
「法」のもとにすべての人は平等である。信心の世界ではいわゆる“偉い人”“特別な人”は存在しない。また必要もない。仏法を持ち、真剣に「法」を行ずる人、「広宣流布」のために行動している人こそが、もっとも尊い存在なのである。
このとき、又六は一歩も退かなかった。そこで、又六の兄・五郎が弟に代わって日目上人にお手紙を出し、ご指導を受けたのである。
 日目上人は又六の主張を正しいとされ、日尊に対して厳重に訓戒された。日目上人は、懸命に正法を信じ行ずる庶民の声を、このように大事にくみとっておられたのである。
日目上人のあるお手紙によれば、日尊は師匠である日目上人のこうしたご注意に対し、あからさまに不満の色を示したようである。傲った生命の狂いは恐ろしい。日目上人は、そのような日尊の性格を手にとるように見ぬかれていた。
 今日、残された書状には前半部分が欠けており、全体の文意は断定できないが、日目上人は次のように明言されている。
「腹立仕候て、状なんどもたばず候あいだ、これよりへつらいがたく存候」(『歴代法主全書』)
—日尊は(日目上人に注意されたことに)腹を立てて、手紙などもよこさないという状態なので、こちら(日目上人)からご機嫌をとるようなことはできません—-と。
慢の生命に対しては、あくまでも毅然と、また厳然と処していかねばならない。そうでなければ、ますます増長させてしまうからだ。
 この御文を拝するがゆえに、私もこれまで、正法正義に照らして言うべきことは毅然として言いきってきた。生命の奥にひそむ慢の心を打ち破るためには厳しい指導もしてきた。それは何よりも、清浄なる信心の世界を守りとおすためである。

以上

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