投稿者:京都乃鬼 投稿日:2015年11月 4日(水)07時45分9秒   通報

京都乃鬼新聞
2015-11-4

=御祈念文変更についての考察(2)=

弊社がスクープした記事の中で、「創価学会のご祈念文から初座の諸天供養をなくす」事に対して反対の声が多かった。

このスクープ情報を取材中に多くの関係者に出会ったが、「何故、初座の諸天供養をなくすことにT副会長達が執着しているのか分かりません。」とある創価学会幹部が嘆いていた。

またある関係者はこう証言する。
「恐らくT副会長やKさん(創◯大学教授)、Mさん(創◯大学教授)たちの考えには、『諸天なんてない』『非科学的だ』『現代人に合わない』『世界で受け入れられない』という前提があるのでしょう。」

しかし、SGI各国で、諸天を受け入れられない国があるなら、その国で時間をじっくり掛けて説明していけばいいだけの話である。

何故、日本の創価学会員が馴染んでいる経文のご祈念文から削除する必要があるのだろうか?

そもそも「諸天は厳然と存在する」というのは、大聖人の仏法の大前提である。そして池田先生の御指導の大前提でもある。我々の師匠の指導を紹介しておこう。

「『悪鬼入其身』の反対で、自身の生命に『梵天、帝釈、日天、月天よ、入りたまえ!』『全学会員に、わが地域のすべての同志の方々の生命に、梵天、帝釈、日天、月天よ、入りたまえ!』
—こう祈れば、千倍、万倍の力が出る。これが生命変革の『祈り』である。『信仰』である。人間革命への“秘伝”である。日寛上人は、文段で『わが身に、日蓮大聖人の御生命が顕れる』と仰せである(「当体義抄文段」に「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」〈文段集676頁〉)。
これが妙法の信仰の究極である。おのおのの生命に、日蓮大聖人の御生命があると仰せである。ゆえに、断じて負けることはない。この大確信で進みましょう!」(2000年7月18日 第48回本部幹部会)

「諸天なんてない」と言うならば、この指導も全くナンセンスになってくる。
そもそも勤行唱題自体がナンセンスということもなりえる。

再度述べておくが、これらの記事内容は、弊社が独自に入手した情報であり、今月17日に行われる師範会議、最高指導者会議、総務会で協議されるであろうというものである。この情報に基づいて意見を述べているので、現実にご祈念文が変更されるかどうかは、その会議の進捗状況による。

しかし、弊社はこうなら無いようにとの思いでスクープ記事を発信し、歯止めがかかる様にと意見記事を発信している。

最後に「8.24」記念杉並区幹部会(昭和62年8月27日 )での「諸天善神」に関する池田先生のご指導を紹介しておく。

 さてきょうは、法華経に説かれる「諸天善神」についてお話ししたい。時間の都合でごく概略的な話になると思うが、今後、さらにさまざまな角度から、幅広く論じさせていただきたいと思っている。
私の入信は昭和22年(1947年)8月24日。

その十日前に初めて戸田先生にお目にかかった。蒲田の三宅宅での座談会であった。そのとき、戸田先生は「立正安国論」を講義されていたことを、はっきりと覚えている。
安国論は、ご承知のとおり、「日蓮大聖人の御化導は立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」といわれる重書である。立正安国にこそ、御本仏の根本精神があられる。
 戸田先生もかつて、「なぜ広宣流布が必要か。それは、私はこの地球上から“悲惨”の二字をなくしたい。そのためには断じて広宣流布する以外にない」と強く述べられていた。その先生のお姿を、今もって忘れることはできない。

 正法による人類の救済—それは、もとより日本一国にとどまるものではない。私は、これまで世界四十数カ国の国々を訪問してきた。これからもさらに平和のために駆けつづける決意である。

 それら、どこの国にあっても、いまだ真実の安穏はない。崩れざる平和はない。正法による「安国」が必要でない国はない。立正安国は、すべての国々にとって、いよいよ切実な法理であり、いわば「立正」による「安国」、そして「安世界」を人類は求めている。これが現実であり、正法を流布する以外に、人類の永遠の安穏は絶対にない。

この、時とともに輝きを増す「立正安国」の法理。「諸天善神」とは、その中核となる法華経の教えである。
「諸天善神」は、正法を受持する“人”と、その“国土”を守護し、福徳をもたらす宇宙の働きのことである。「諸天」の名のごとく、一般に天界に属し、「善神」の名のごとく、正法を守り、人々の幸福を助ける善の力用をもっている。ゆえに正法が流布すれば、必ず、その国の民衆も国土も守られ、栄え、平和と幸に輝いていく。
「諸天善神」は、法華経の会座に来集し、法華経の行者を守護する誓いを立てている。法華経の行者とは、別して日蓮大聖人、総じては広布に進む私ども門下である。
諸天が集った模様は、法華経の序品第一に説かれている。(開結121頁)  それによると、まず「釈提桓因」の名があげられる。これは帝釈天のことである。帝釈天といっても、映画「男はつらいよ」で有名な東京の葛飾に住んでいるわけではない(笑)
世界の中心とされる須弥山の山頂・喜見城に住み、四天王をしたがえて三十三天を統領しているといわれる。  また「娑婆世界の主・梵天王」がいる。梵とは清浄、寂静、浄行の義である。ここには「尸棄大梵」「光明大梵」等の名もみえる。
梵天と帝釈は諸天善神の代表であり、仏の説法の時には、仏の左右に列なり、法を守護する。ともに、六道の凡夫が住む三界の広大な天地を領する善神である。それからみれば、一国を形だけ治めて威張っているリーダーなど、比較にならぬほど小さな存在である。

 また「名月天子」(月)、「普香天子」(明星を代表とする諸星)、「宝光天子」(太陽)の、三光天子も来集している。  さらに「四大天王」がいる。御本尊の四隅にお認めの諸天善神である。

このうち「持国天王」は、「治国天」ともいい、東方を守護する。他の西南北の三州をも兼ねて守護するので持国という。また「安民」の名もあり、文字どおり、国土を平和に治め、民を安穏に守護する働きである。

「広目天」は、西方を守護し、浄天眼をもってつねに衆生を観察している。悪を見破り、悪人をこらして仏心を起こさせる。核兵器等、悪魔の働きを見破り、防いでいく働きも、これに含まれると考えられる。

「毘沙門天」は「多聞天」ともいい、北方を守護する。財宝富貴をつかさどって、その力で仏法を守護する。また多聞の名のとおり、つねに仏の説法を多く聞き、仏の道場、法座を守る。

「増長天王」は南方を守護し、衆生の所業の善悪を検討し、帝釈天に報告する。また増長とは免離の意味で、煩悩や不幸を近づけない働きとされている。  以上が四大天王で、みな帝釈天に率いられた勇将である。

そして「自在天子」「大自在天子」も集っている。大自在天は威力をもって三千世界を支配するとされる。瞋ると国土が荒れ乱れるので、暴悪とも称する。

これら序品に説かれた諸天は、それぞれ一万ないし三万の眷属とともに釈尊の法会に列座している。

さて法華経の安楽行品第十四には、「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し、能く聴く者をして、皆歓喜することを得せしめん」(開結462頁)と説かれている。すなわち、法華経を弘教する人がいれば、法のために、諸天善神が昼となく夜となく、つねにこの人を守護し、その人の弘教を助け、その法を説いて聞かせる、どんな相手をも歓喜させてしまうというのである。
御本尊を受持し、広布に進む人を、いかなるときにも助け、妙法流布を推進していく—これが諸天の仏前での誓いである。

同品にはさらに「天の諸の童子 以って給使を為さん 刀杖も加えず 毒も害すること能わじ」(開結468頁)とも説かれる。
 正法流布の人には、諸天が来たって仕え、刀や杖、毒薬などさまざまな危害、事故等からその人を護るという厳然たる約束である。
 さらに陀羅尼品第二十六では、鬼子母神とその娘である十羅刹女らが守護を誓う。

「世尊、我等亦、法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す」(開結644頁)と。七難など人間を衰えさせ、患わせる災害・災難から救うとの誓願である。

十羅刹女らは爾前経では悪鬼とされたが、法華経にいたって成仏を許されて善鬼となり、その恩返しのために諸天善神として働くことを約束した。
また「諸天善神」には、本来、日本古来の神である天照太神、八幡大菩薩等も含まれる。その本地、意義等にふれられた、多くの御書もあるが、本日は略させていただく。

ともあれ、仏法流布にともなって、各国・各地の土着の神々が、仏法のなかに位置づけられた例である。  日蓮大聖人は文永八年(1271年)9月12日夜、竜の口の刑場に向かわれる途中、鶴岡八幡宮に向かって、八幡大菩薩を叱咤しておられる。釈尊が法華経を説かれ、諸仏・菩薩、またインドならびに中国・日本等の善神・聖人が集った前で、諸天は一人一人「法華経の行者を懸命に守護する」という誓状を釈尊にさし出したではないか!
今、私(大聖人)の危難にあたって、どうして誓いを果たさないのか—-と。

「いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきに・いかに此の処には・をちあわせ給はぬぞ」(御書913頁)

—大至急、誓状の宿願を果たすべきであるのに、どうしてこの場所に来あわせないのか—と厳しく諌暁された。
この叱声に、八幡ならびに全宇宙の諸天善神が呼び覚まされ、竜の口の頚の座に、月光天子による光物が出現して、大聖人を守護申し上げた事実はあまりにも有名である。

ちなみに御本尊に天照太神、八幡大菩薩が認められていることについて、過去の国家神道との連想から、あらぬ誤解を受けたことがある。

かつて日本の国家神道は、韓国などアジアの民衆に対し、権力を背景として独善的に信仰を押しつけ、天照大神等を拝むよう強要した。この歴史の事実は、今も人々の心に忌まわしい記憶となって焼きついている。そこから御本尊の天照太神等の諸尊に注目し、仏法がかつての偏狭な国家神道と軌を一にするものではないか、と批判された。

 もちろん、まったく見当違いの誤解である。大聖人は、この大御本尊は「一閻浮提総与」と仰せである。すなわち、もともと全世界の民衆のために顕された御本尊である。決して、日本一国のみを対象とするような狭いものではない。

 また先ほどふれた大聖人の八幡への叱咤のなかにも、「天竺・漢土・日本国等の善神・聖人あつまりたりし時」(御書913頁)と言われている。インド、中国、日本、その他の国を含む全世界の善神・聖人が、法華経の会座には参加していたとの御教示であり、「法華経」そして「大聖人の仏法」が、本来、あらゆる国を平等視していることはいうまでもない。

とくに「……日本国等の善神・聖人」という「等」の一字を見落としてはならない。このように大聖人の仏法は、全世界、いな全宇宙へと開かれた普遍性を元来そなえている。

天照太神等は、あくまで「一念三千」という生命の全体観のなかに、天界の一部として位置づけられ、宇宙の善なる働きを表象する役割を担っているわけである。
この点にも関連して、御書の仰せを拝したい。有名な「日女御前御返事(御本尊相貌抄)」には次のように述べられている。

「されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し(中略)日天・月天・第六天の魔王(中略)三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用の神豈もるべきや」(御書一二四三㌻)と。

すなわち五字七字の題目を中心にした十界の諸尊のなかに、あらゆる諸天善神もすべて含まれている。御本尊は全宇宙の縮図であられる。
「体の神」という実体のある神がそなわっている以上、その働き、作用としての「用の神」も、のこらず御本尊の力用にそなわっている。

そして、諸天を含む十界の衆生が「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」(同㌻)と。妙法に照らされると、十界それぞれの生命が、本来そなえている尊い姿となり、幸せへの働きをなすようになる。これを「本有の尊形」といい、ここに「本尊」の意義の一つがある。

「諸天善神」を現代的にとらえると、どうなるか。これは大きな問題であり、ここでは基本的なことのみふれておきたい。

たとえば、諸天の代表格である「梵天・帝釈」は、どちらも本来、古代インドの人格神である。帝釈天はインド神話上の最高神とされ、もともとは雷神であった。雷神といえば、今年は大暴れだったが、その威力のすさまじさを擬人化したのが帝釈天の原形である。

梵天は、バラモン教の主神であるブラーフマンを、仏法の天界のなかに吸収したものである。これも宇宙の大いなる力と働きの神格化といえよう。また日天子は太陽のめぐみを神格化したもの、月天子等も同様である。
「諸天善神」には、太陽・月・星など“天体”に関係があるもの、また雨や風など“気象”に関係があるもの、大地や海、山など“地理”に関するものなど、自然界の事物・現象の強大さ、偉大さを神格化したものがある。さらに民族・集団の力を神として象徴化したものもある。

いずれにしても、宇宙の森羅三千、一切の存在と力用は、「妙法」という根源の一法におさまる。ゆえに妙法を根本とするとき、すべてを正法を守り広布を前進させる善なる働きとして、自在に使っていける。いいかえれば、宇宙は本来、一切が「慈悲」と「調和」の働きをなしている。宇宙全体が妙法の当体だからである。地上のあらゆる生物をはぐくむ太陽のめぐみも「慈悲」であり、潮の干満をもたらす月の運行も偉大な「調和」である。

 しかし、人間が宇宙の根本法である妙法に反する行為をするとき、本来の調和は壊れ、自然をはじめとする周囲の環境も、三災七難の惹起等をはじめ、無慈悲な悪の働きをするようになる。主体である「正報」の人間が、妙法に基づいてこそ、「依報」である環境も諸天善神としての本然の力用を発揮する。

すなわち、宇宙の森羅万象を、「諸天善神」とするか、逆に「悪鬼」「魔」等とするかは、人間の一念しだいなのである。

「治病大小権実違目」には次のように仰せである。
 「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(御書997頁)と。

つまり法華宗の説く根本は「一念三千の法門」である。一念に三千世間(如是)を具えるゆえに、そこには本来、善も悪も含まれる。最高の悟りの境界である妙覚の仏の位ですら例外ではない。

この一念の善悪のうち、元品の法性は、梵天・帝釈等の「諸天善神」となって顕れ、元品の無明は、広布を妨げる「第六天の魔王」と顕れる。「善神」といい「魔王」といっても、すべてわが一念の妙用である。  また「善神は悪人をあだむ悪鬼は善人をあだむ」(同頁)と。悪鬼の充満した社会・国土では善人は迫害され、苦しむ。ゆえに悪人のみの社会となり、ますます悪鬼が増え、不幸が増大していく。

この悪の循環という人類の宿命を断ち切るために、絶対に「広宣流布」が必要なのである。その出発点は、一人の「人間革命」であり、一人の「一念」の転換である。
また「諸天善神」とは狭義には天界であるが、広くは「菩薩・二乗」も法華経の行者を守護する。それらもまた、妙法の力用それ自体である。

一例として観世音菩薩をあげておきたい。いわゆる“観音”は、さまざまな寺院や教派において信仰する人も多い。しかし、その本質は何か。

「御義口伝」には「観世音とは観は空諦・世は仮諦・音は中道なり」(御書775頁)と示されている。

 少々、むずかしいかもしれないが、その大意は、「観」とは、平等の真理にいたる己心の智慧の働きであるから「空諦」である。

「世」は世間であり、外界の差別相であるから「仮諦」である。

「音」は有無の概念を超えたものであり、しかも己心と外界とを媒介するから「中道」である。

このように観世音菩薩は「円融の三諦」を表している。円融の三諦とは、つまるところ南無妙法蓮華経にほかならない。

また二乗の代表の一人として御本尊にもお認めの舎利弗も、円融の三諦を表す。「御義口伝」には「舎とは空諦利とは仮諦弗とは中道なり」(御書722頁)とある。
観世音も舎利弗も円融の三諦であり、ゆえに南無妙法蓮華経の全体である。

したがって、私どもが円融の三諦の御当体である御本尊を受持し、妙法を唱え弘めるとき、はじめて観世音も舎利弗も、その絶大な力用を発揮する。決して観世音等それ自体を礼拝するのではない。

総じて、一切の仏・菩薩・二乗・諸天等の善なる働きは、のこらず妙法への「信心」の一念に収まっている。ゆえに強盛なる信心のあるところ、全宇宙をも味方としつつ、広々とした境涯で悠々と人生を闊歩していけるのである。

さて、「法華取要抄」には「今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向つて之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」(御書334頁)と仰せである。

すなわち、文殊、弥勒等の大菩薩、梵天、帝釈、日月、衆星、竜王などは、法華経にいたって初めて未聞の法を聞き、釈尊の真の弟子となった。また、舎利弗、目連等の二乗も、釈尊成道以来の弟子であったが、法華以前は、方便の教えしか示されず、成仏を許されなかった。
それが今、法華経にいたって真実の法門を授与され、法華経本門・従地涌出品第十五の略開近顕遠(釈尊がこの世で成道したという始成正覚の立場を開き、久遠の昔から仏であったという久遠実成を、ほぼ顕すこと)の説法にいたり、華厳経以来の大菩薩、二乗、大梵天王、帝釈、日天、月天、四天、さらに畜生界の代表とされる竜王等が、すべて、仏の悟りである妙覚に隣する等覚の位に昇り、また妙覚の位に昇ったのである。

したがって、天を仰ぎ見るとき、太陽も、月も、星も、それぞれが生身の妙覚の仏の力用を発揮して、衆生を利益している姿を見るのである、と。

つまり、仏法の深義に立つならば、天空の日月、諸星は、あたかも衆生を利益するような仏・菩薩の働きをもって、私どもを深い慈悲でつつんでくれているといってよい。なんと壮大にして、ありがたきことであろうか。また、こうした甚深の宇宙観、生命観を明かした仏法の深遠さに、あらためて感銘せざるをえない。

 思えば、人類の歴史において、さまざまな人が、さまざまな思いをこめて「天」を仰ぎ見ている。大空を見上げ、想像の翼を広げる人もいよう。また、困り果てて天を仰ぐ人もいる。

これまでもたびたび引用してきた古代中国の歴史書『史記』(司馬遷)には、「天道是か非か」との一文がある。

これは、正義が滅び、悪がはびこるような世の中で、「天道」があるとすれば、それは正しいものなのか、間違ったものなのか、との痛烈な問いかけである。つまり、「天」という巨大な存在をまえに、人間がなすすべもなく立ちつくす姿ともいえよう。

多くの人が仰ぎ見た「天」は、先ほど述べたように、妙法の眼から見るとき、妙覚の存在として、衆生を利益する働きをもったものである。

しかし人々は、その深い意義も知らず、また妙法にのっとることもなく、「天」を信仰の対象とし、太陽や月などを神として崇めてきた。ここに「天」を頼みとしながら不幸の歴史を歩まざるをえなかった人類の悲劇があった。「天」も妙法のリズムをもってつながっていくとき、すべてが“正義の天道”へと変わっていく。人間の勝利、慈悲の方向へと向かっていくことを確信していただきたいのである。

さて、諸天善神は、「法味」を唯一の“食”として威光勢力を増すことができる。末法今時においては南無妙法蓮華経のみが、諸天の滋養となる法味である。

 「立正安国論」の「御勘由来」には「諸大善神法味を食わずして威光を失い国土を捨て去り了んぬ」(御書34頁)と仰せである。

つまり—日本中がいわゆる「神天上」となり、諸天善神は法味を味わうことができず、威光勢力を失い、国土を捨て去ってしまった—と。  国土に正法の妙味がなければ、諸天善神は法味に飢え、国を捨てて、去る。ゆえに人も国土も衰微せざるをえないのである。

反対に、法味をえた善神は、絶大な力で、衆生を守護する。
「法華初心成仏抄」に「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ」(御書557頁)との御文がある。
“御本尊に向かい題目を唱えていけば、わが生命の仏性も呼び出されて、必ず顕れる。また梵天、帝釈の仏性も呼び出されて、われわれを守ってくれる”との仰せのとおりなのである。

 私たちは、朝の勤行のさい、東天に向かい、太陽(日天)に代表される諸天に法味を与えている。日々の勤行・唱題は、大宇宙に遍満する諸天善神の威光勢力を限りなく増していく、荘厳な儀式である。ゆえに、勤行・唱題の一念は、深い祈りのこもったものでなければならない。

夢かうつつかわからぬような“いねむり勤行”や、時間に追われての“スピード勤行”では、諸天に法味を与え、善神の厚い加護を得ることはできない。

戸田先生は、仏法の深い意義について、いつもわかりやすく話してくださった。あるとき、勤行と諸天善神について、次のように語っておられた。

「初座の御観念文がすんで、今度は、二座で御本尊のほうに向かうと、その諸天善神が皆、さあーっと、われわれの後ろのほうに並んで、控えることになる。そして、私たちが御本尊に向かって唱える経文、題目をきちんと、聞いているのだ」と。

こうして法味をえた諸天善神は、日々、威光勢力を増し、広大な福徳を、個人に、社会に、そして国土にもたらす。ゆえに、私どもの真剣な勤行、また広布への行動は、一人一人を絶対の幸福に導くとともに、わが地域・国土の永遠の安穏と繁栄を築き、さらには全宇宙の調和に満ちみちたリズム正しい運行のための、無限の源泉力となっているのである。これほどすばらしい活動、行動はない。いわば最高善の行為を日々実践されている大切な方々が、皆さまなのである。

 諸天善神の働きや力用は厳然としている。が、それは、現代では科学的に証明することは容易ではない。ましてや、日々の勤行・唱題が大宇宙に通じ、諸天に法味を与え、その威光を増していることなどは、仏法を知らなければ、想像さえできないことであろう。だが、宇宙の運行と地球上の現象との相関性は、昔から指摘されてきたし、近来、ますます関心が高まっている。

たとえば、経済の分野でも、ある学者の研究によれば、一八七五年から一九八五年の百十年間の統計から、太陽の黒点の数の変化とアメリカ経済における設備投資の増減との間に、密接な関係性があることが論じられている(嶋中雄二『太陽活動と景気』日本経済新聞社)

こうした科学的な研究の存在自体が、宇宙の不可思議な力との連関性に対する、人々の関心の表れといえよう。
宇宙と同様、生命の不可思議さにも、かつてない興味が寄せられる時代となった。

身近な例でいえば、植物に音楽を聴かせ、その生長にどう影響があるかを調べる実験が行われている。アメリカ・コロラド州の生物学研究所の一つの報告には、ベートーヴェンなどのクラシック音楽を流した温室のカボチャは、スピーカーのほうへ向かって伸び、ロック音楽を聴かせたほうのカボチャは、明らかにスピーカーをよけて伸びたことが述べられている。(J・E・ベーレント『世界は音 ナーダ・ブラフマー』大島かおり訳、人文書院)

 一念の妙用は、目には見えない。しかし、強き信心の一念が、社会や自然、さらには大宇宙にまで、諸天の無限の加護をもたらすことは、厳粛な事実である。  日蓮大聖人は、四条金吾にあてられた建治二年(1276年)の御手紙に、次のように仰せになっておられる。

「日蓮も又此の天を恃みたてまつり日本国にたてあひて数年なり、既に日蓮かちぬべき心地す」(御書1146頁)
建治二年は、竜の口の法難から五年後にあたり、この御文の「数年」とは、竜の口の法難の起きた文永8年以降の歳月を指すと考えられる。

つまり、竜の口の法難、佐渡流罪と、命にも及ぶ大難にあわれながら、大聖人は日天子の加護を頼みつつ、日本中の謗法の僧や、それに誑かされた権力者と真っ向から対決された。そして“勝った心持ちである”と断言されている。

いかなる権力、魔力をもってしても、大聖人を打ち破ることはできなかったのであり、竜の口の頚の座で“光物”が出現したのをはじめ、その間、御本仏をお守りした諸天善神の力用は歴然としているのである。

 大聖人は、やはり四条金吾にあてられた御手紙の中で「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず、所詮運ものこり果報もひかゆる故なり、ことに法華経の行者をば諸天・善神・守護すべきよし属累品にして誓状をたて給い」(御書1192頁)と述べられている。

つまり、金吾が敵人の襲撃をのがれたことを、大聖人は喜ばれて—福運がなくなれば兵法も役に立たず、また果報がつきてしまえば、家来も従わなくなるものだ。あなたが強敵に襲われて無事だったのは、結局、福運と果報が残っていたからである。とくに、法華経の行者に対しては、諸天善神が守護すると、法華経嘱累品で誓いを立てている—と示されている。

金吾が強敵に狙われながら無事であったのは、正法信受による福運と果報によるものであり、所詮は信心こそ肝要であることを御指南されていると拝せよう。

 だからこそ大聖人は、そのあとで「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ、我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべからず」(同頁)—いよいよ妙法に対して強盛な大信力を出していきなさい。自分の福運がつきて、諸天善神の守護がないと恨むようなことがあってはいけない—と御指導されているのである。

運も、不運も、結局、だれの責任でもない。そうした果報を生む因を積んできた自分自身の責任である。ゆえに、みずからの不運を嘆き、諸天の加護なきを恨んでも、仕方のないことなのである。

世の中には、運の良いように見える人生もある。逆に、不運の連続であるような人もいる。また、幸せの絶頂にありながら、急激に不幸の奈落へと転ずる場合もある。
ともあれ、福運がつきてしまった人生ほど惨めなものはない。人類の歴史には、そうした人々の事例が、何万、何十万とあふれている。

戸田先生も「福運のある人は、凧が風をはらんで勢いよく上昇していくように、どんどん上向きの人生を歩んでいく。しかし、いったん福運がつきてしまえば、アッという間に、不幸の坂道をころげ落ちていくものだ」と、よく言われていた。

しかし皆さまは、災いを福へと転じゆく、絶対の妙法を受持された方々である。先述したように、正しき信心こそ、限りなく福徳を積みゆく源泉の力なのである。私どもは、正法をたもった喜びと誇りも高く、はつらつたる前進を続けていきたい。

以上

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