投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年11月 7日(土)19時34分29秒   通報

>結論を出したあとでも、結論は結論として、再度耳を傾けることは大切なんだとジョーカーさんの投稿を読んで気がついた<

自分の考えや判断というものは、相対的なものですから、常に正しいとは限りません。投資をされている人ならわかると思いますが、いくら分析し、正しい判断だと思っていても、そうではないケースはいくらでもあります。その時に、所謂「損切り」ができるかどうかであり、できない人は大損し、取り返しのつかない事態になったりします。損切りとは、間違いを間違いと認めることで、ある程度の損失が出ても、そこで決済することです。これは大変勇気のいることで、人間というのはどこかで、自分の判断は正しいと思いたい生き物です。「待っていればいつか良くなるのではないか」と淡い期待をし、損切りすることなくズルズルといくことほど危険なことはありません。

人生は決断の連続です。一つひとつの決断が、すべて正しいのであれば、この世に失敗という文字はなくなる。それどころか、「こんなはずじゃなかった」という結果になることは、往々にしてあります。自分の感覚が絶対に正しければ、離婚する夫婦はいなくなりますが、現実はそうはいかない。それだけ自分の考えや判断というものは曖昧なものであり、常に間違いのリスクにさらされています。これがわからないと、自分というものに執着し、過ちがあっても、素直に認めることができなくなる。

信心にも諸刃の剣の側面があり、商売している人が、「祈りは叶う」という文言にとらわれすぎると、引き時を間違い、「なんとかなる」と盲信してしまう。仏法は道理ですので、やり方やタイミングを見間違えば、成功することはないにも関わらず、淡い期待をしてしまう。「福運」というものに頼りすぎ、現実の判断が疎かになる。三証を大事にするのが仏法であり、人生もまた、三証そろってこそ結果を出すことができる。つまり、文証は正しい知識であり、道理は、人の道やタイミング、そして文証、理証があってこそ、正しい結果(現証)が生じる。結果がでればいいわけではなく、プロセスを大事にするのが仏法ですので、人の道に反して結果を出しても、最後はおかしくなるのがオチです。

信心しようとしなかろうと、自分の願いを叶える力は誰にでもあります。誰もが結果を出すことはできますが、それが幸福につながるかどうかは別問題です。御本尊根本、題目根本にしたときに、三証きっちり揃い、自身も幸福になる。宇宙のリズムに合致するとはそういうことです。題目こそが宇宙のリズムそのものですので、そこに合わせるために題目をあげる。それが創価の信心というものです。

凡夫とは愚かであり、「失敗してこそ凡夫」という側面があります。それを自覚していれば、どんな声にも耳を傾けることができるようになる。それを前提とした上で、自分の信念を構築していくことが大事になると思います。信念と、聞く耳もたない頑固は、似て非なるものである。

人も組織も判断を間違う時がある。それを認める力こそが、その人や、組織の度量であります。度量なき人間が上に立つと最悪である。批判を意見として受け入れ、吟味していくことが、人の上に立つものの、備えるべき感覚です。いつの時代も必要とされるのは、本物のリーダーなのです。