投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月25日(日)11時38分14秒   通報

>しかし、ずっとモヤモヤしていたので聞いてもらいたいと思いました。<

人生とは理不尽との戦いであり、創価学会内においても例外ではありません。幹部の横暴な振る舞いや、納得のできないことは多々あります。信心頑張ろうと決意し、実行すればするほど「魔」は吹き荒れ、不信を起こさせるために、ありとあらゆる妨害があります。信心の模範であるはずの職員ですら、否、職員だからこそ人としてあるまじき行為をし、会員に不信を植え付けようとする。これも魔の働きです。苦首男様の聞かれた、「信じられないような話」も、隠ぺいされているだけで、似たようなレベルの話はいくらでもあります。十数年前に、会館内で職員どうしの不倫の末、殺人未遂事件も起きており、大々的にニュースにも取り上げられました。

信心とは、信・行・学の実践です。御本尊を信じ、朝晩の勤行唱題に励み、身近な人を大切にし、御書や先生の指導を学ぶ。この一連の行動の中に信心があり、基本となります。何があってもなくても基本に徹し、行じていくことが肝要で、水の流れるが如く、持続していくことです。この基本を怠るようになると、魔に食い破られていきます。人間には、「楽をしたい」、「いい思いをしたい」という欲望があり、これら煩脳が仏道修行を妨げ、行き過ぎると、犯罪行為や倫理違反行為へと転落していきます。元々個々に内在している煩悩が魔となるのを「煩悩魔」といいますが、こういった「自己中心性」との戦いこそが信仰者の戦いの根本です。

他にも、心身の病気により、仏道修行を妨げる「陰魔」や、自分が死んだり、大切な人が亡くなることにより、「なんで信心しているのに」と疑いを起こさせる「死魔」があります。極めつけは、権力からの迫害である「天子魔」という恐ろしい魔も存在し、ありとあらゆる形で、惑わせてきます。模範であるはずの職員や幹部の不祥事も、信心を疑わせるための魔の働きであると捉えるところに信心があります。

信心何十年続けたとしても、基本がおろそかになっている人は危ないです。いざという時も大事ですが、日常どれだけ基本に徹することができるか。これのほうが遥かに大事であり、地道に手を抜かずに基本をやり抜いている人と、役職だけ無駄に高く、いざ一人になると、基本をおろそかにしている人とは天地雲泥の差があります。職員であろうと、幹部であろうと、会長であろうと、立場で人を見ないことが肝要であり、むしろ立場が上であればあるほど増上慢という魔に食い破られる可能性が高く、危ないのです。

誰もが一念三千の当体であり、善悪両面具えています。いつ何時、誰がおかしくなっても不思議ではありません。学会員になるということは、自身の弱い生命と対峙し、改革していくということです。これを「人間革命」といい、それは臆病との戦いでもあるのです。題目をあげることにより、生命力を引出し、それが勇気となり、人のため、社会のために行動を起こす。これが仏法者であり、「戦う人」を意味します。

法華経とは蓮華であり、蓮華は泥の中より生じますが、泥に染まることはありません。現実に起こる、あらゆる魔の動きに対しても、染まることのない信心を磨き、輝いていくことが重要です。幹部や組織がどうであろうと、信・行・学の基本だけは、絶対に外さない中に、本当の信心があります。これが王道であり、大福運の道なのです。