投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月25日(日)06時20分8秒   通報

>「会合に出ない」という選択肢は 自分に無く、しかし出ると 針のむしろ に いる気がする自分。
また 同じような気持ちでいる同志に どう指導してあげれば良いでしょうか?<

大事な、核心を突く質問ありがとうございます。本来ならば、このような質問には、幹部や職員が、明快に答えてこそ健全なる学会の姿ですが、現実には中々そうはいかないので、代わりに私が答えます。もちろんあくまでも私見の域を越えることがないことは前提です。

創価学会も、組織であるが故に、そこに所属する会員は、会が決めた方針に従うことが基本であり、原則です。勿論例外も存在し、神札問題や54年問題等、組織で決めたことであっても従う必要はありません。あくまでも御書や先生の指導を根本とし、その軌道から外れていることはしないというのが仏法者の姿勢と言えます。原則を絶対とし、なんでもかんでも「一丸となって団結」を叫ぶことは間違いであり、それをカルトと言います。

さて、支援活動について、会が決めた方針とは一体何か。それは、支援は「自由」ということです。しかし、現実には、報告があることから、自由とは言えません。これはシステムの不備の問題であり、即座に改善すべきことではありますが、それを期待してもはじまりません。政治の世界はイデオロギーであり、それを統一することは出来ないですし、厳しく言うのであれば、支援活動は、学会員の信仰心を政治に利用する行為でもあるのです。「信心の戦い」の名の元に、やりたくなくてもやらざるを得ない雰囲気こそが危険なのです。支援活動を学会活動として推進することのジレンマがここにあります。

選挙は諸刃の剣です。支援したからといって、国が良くなるとは限りません。場合によっては、悪い方向にも行きます。必ずしも、支援=広宣流布とはならず、ある意味、博打的要素が介在しています。それでも活動家は、支援が広宣流布につながると信じ、活動に邁進しています。学会や党の方針を丸ごと鵜呑みにし、それが正しいと思い込むと、懸念を表明する声に耳を傾けられなくなります。往々にして幹部が一方的な姿勢なのは、信仰という絶対領域のものを、相対的な世界にあてはめるところにあります。

日蓮仏法とは、人間を根底から救う法であり、それに比べれば、政治の次元における幸福というものは浅く、取るに足りないレベルのものです。学会活動の要も、「一人の人を幸福にしきること」であり、支援活動というのはおまけです。位置づけとして、選挙は戦いではなく、「お祭り」です。祭りとはエンターテインメントであり、楽しむものです。池田先生も支援活動で必要以上に苦しむ会員がいることを御存知で、「打ち出しを利用していくんだ」と指導されています。自分自身の中で、支援活動をどのようにエンターテインメント化していくか。それが解決の鍵ではないでしょうか。

現場の人間には、会の方針を変える力はありません。本部は、現在の公明党を是と判断しているから、支援を学会活動とする流れを変えないのでしょう。支援活動で悶々としている人に対する「気遣い」は期待できないですし、それほど慈悲深くありません。学会はまだまだ、そのレベルということを認識しなければなりません。選挙は祭りですので、「深刻に考えない」ことも大事です。学会は、いつでも目の前の戦いを、「絶対に負けられない」と演出し、士気を鼓舞しようとします。しかし、選挙に限っては、「祭りなのだから必要以上にまじめにやらない」が原則です。

世の中には選挙どころではないほど深刻な悩みを抱え、困りまくっている人が無数に存在します。学会員も然りです。困っている人、苦しんでいる人の役に立とうと思うならば、自分が諸天善神になることを祈念すれば、いくらでも集まってきます。祈れば、化他行は無限に出来ます。とにかく、目の前の身近な人の善知識となり、善き友人(諸天)となっていくこと。これが仏道修行のすべてです。支援活動も、対話のきっかけとして機能させ、自分流にカスタマイズしていけば価値へと転換できる。「会合に出ない」というストライキ的手法によるアプローチもありますが、会合に出るのであれば、エンターテインメント化していくことが大事になります。

あくまでも、一人を大切にする戦いを根本とし、支援活動は祭りなので楽しむ。支援活動の是非はおいといて、政治に対して考えるきっかけにはなりえるし、動執生疑を起こさせ、「気づき」を提供する機会にもなる。馬鹿とハサミと選挙は使いようであり、すべてはこちらの境涯次第といったところではないでしょうか。
悩むべきは目の前の一人をいかに救っていくかということであり、選挙ごときで右往左往している場合ではないわけです。支援活動といっても所詮は、候補者の就職活動のサポートですので、深刻に考えないほうが健康に良いでしょう。