投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月24日(土)16時04分58秒   通報

>乞眼の婆羅門の責めに堪へざる故、退転した身子の話を現代に置き換えるとどういう話になるのでしょうか?<

重要な問いかけ、ありがとうございます。あくまでも一意見ではありますが、私の考えを述べたいと思います。永遠の希望様が仰るように、乞眼の婆羅門の話は、魔の理不尽さの象徴であり、魔とは、自分の一番弱い部分を突いてきます。我々の身に当てはめると、「信心しているのに何で?」という疑いを起こす出来事であり、その不信を乗り越えられるかどうかに、宿命転換も境涯革命もかかっています。

乞眼の婆羅門のような理不尽な振る舞いをされたら、誰でも腹が立つことでしょう。いよいよ仏になろうとする時に三障四魔は競い起こります。もしも舎利弗は、「これは魔である」と、見抜くことができたのならば、全然違った結果になったことでしょう。では、なぜ見抜くことができなかったのか。舎利弗は六十劫という膨大な期間、菩薩行を行じてきました。それはそれはすごいことであり、凡人が真似のできるレベルではありません。私が一番恐ろしいと思うことは、自分は頑張ってきたという「自負心」です。きっと舎利弗も、菩薩行に対する自負心があったのではないかと思うのです。頑張ってきたという自負心こそが、理不尽な魔を見抜けなかった元凶であり、「自分はまだまだだ」と思えていたら、退転しなかったのではないか。

乞眼の婆羅門を悪知識とするのか、それとも善知識とするのか。それは本人の信心の問題です。仏に成る道は、三障四魔との戦いを避けて通ることはできません。仏と魔との闘争であるが故に、創価学会の組織にも善知識、悪知識は入り乱れます。もちろん宿坊の掲示板や他掲示板も然りです。仏法の眼で見れば、娑婆世界は第六天の魔王の支配する国土であり、悪が栄え、善が虐げられる世界です。そして魔とは、理不尽のみならず、親の思いをなし、「あなたのためにならない」と情に訴えかけたりと、千差万別であり、だから見破ることが難しい。

大事なことは、人間の世界であるが故に、「絶対」という領域はなく、当然、「創価学会は絶対」という考えは危険です。学会内には様々な問題があり、傲慢な幹部、官僚主義等、信心を壊す悪知識は、はびこっています。勿論、善知識の側面も多分にあり、どちらか一方を見て、すべてを判断するのは愚かです。人間というのは、自分の都合の良い部分しか見ようとしない傾向があり、善くも悪くも相手を無意識のうちに、決めつけていたりします。誤解や偏見、レッテルを張り、自分の物差し(境涯)でしか判断することができないのが凡夫であり、仏法者であるならば、そこを越えていかなくてはなりません。

さて、「反板は、こちらを信心の浅い人に不信を起こさせ退転させていると批判しています」とのことですが、まだまだ内部の悪との戦いに対して、多くの会員に「免疫力」が足りないのは事実でしょう。つまり、乞眼の婆羅門の責めに耐えられなかった舎利弗のように、信心が弱ければ、幹部不信、組織不信を起こし、ひいては信心をやめてしまうのではないかという懸念の声でしょう。しかし、悪を顕らかにし、戦うことが日蓮仏法の魂であり、「我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(P234)との御文をよくよく噛みしめるべきです。即ち、幹部や組織が腐敗堕落することは想定内であり、その姿をみて、退転するとは一体何事か!ということです。

内部の悪との闘争に関しては、池田先生がスピーチを通し、すべて教えてくれました。悪との戦いは安楽行ではない。第六天の魔王との対峙であるが故に、肉を切らして骨を断つ覇気がなければ戦いにならない。それが初代牧口先生の精神ではないか。結果、創価学会は壊滅状態となり、牧口先生は獄死。これが悪との戦いの壮絶さであり、無傷で綺麗にスマートな戦いなど、土台無理である。

池田先生は、54年体質の創価学会と戦い、大発展させました。その戦いに連なることができるのか、それとも54年体質にのまれていくのか。厳しく言うならば、免疫力がないこと自体が悪であり、本門の池田門下とは言えない。先生から一体何を学んできたのかという話です。鎌倉時代においては、大聖人のあまりの強い折伏により難が起き、1000人中999人が退転という程、門下は信心を辞めていきました。果たしてこれは大聖人の罪であろうか。門下が退転しないことを第一として考えたのなら、もっと優しく、ゆるやかに法を説かれたことでしょう。しかし、そうはされなかった。果たして内部の悪との戦いはどのような位置づけになるのか。一人ひとりが思索すべきテーマであると思います。