投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月19日(月)02時07分56秒   通報

>衆生の機根が修羅界になると戦が起きる< 悪知識を善知識へと転換すべき智慧こそが仏法であり、責めるだけでは修羅でしょう。悪は悪として責めることと、悪をも善へと変えていくという両面が大事であると思います。悪への怒りがなければ、容認へとつながり、善を見殺しにするし、かと言って、怒り、責めていればよいというものでもない。自分が変われば回りが変わるという仏法の原理は、悪を責めることと、悪知識をも善知識ととらえることのできる自分になることの、二つの側面を教えているのではないか。これが悪との闘争のポイントではないでしょうか。 悪に対して怒り、責めることは修羅であり、悪をも善知識としていくのは慈悲であり、菩薩の振る舞いです。悪は絶対に許さないことを前提とし、その上で、善知識へと転換していく。善悪不二であるが故に、責めるだけでは焼野原となり、善をも消滅させてしまう。この先、悪い幹部が横行しても、悪事を責めるのは当然とし、それだけではなく、教訓として生かすこと。即ち、「増上慢は他人事ではない」ことを自覚する契機とすることが大事であると思います。そして、幹部の傲慢な振る舞いを通し、本来あるべき創価学会の姿を考え、実現させていく原動力にしていけば、善知識へと転換できる。 宿坊の掲示板の方向性として、幹部の悪事を暴き、糾弾することと、それらを反面教師として、現実に創価学会をどのように変革していくかを提示していくこと。これはセットであり、どちらか片方だけでは足りない。54年も教義変更も安保法制も、未来の創価学会にとって、とても考えさせられる案件である。まさに、カオスの中に光があり、新しい広宣流布の道もそこにある。 宿命転換といっても、要は、嘆くべき現実や、自分自身を苦しめるあらゆる事象(悪知識)に対して、それらを善知識と捉えることのできる自分になれるかどうかです。すべては仏になるための修行であり、善知識であることがわかれば、すべてが一変する。それを一念の変革ともいい、一念変革の真剣な題目が肝要なのです。題目ではじまり、題目で終わるのが日蓮仏法であり、蓮華の因果であるが故に、仏壇の前で、すべての決着は着いているのです。一念が変わらなければ、何年信心しようとも宿命転換はなされず、所謂、「活動すれど活動すれど、わが境涯少しも変わらじ」という結果となる。景気の悪い信心から、景気のいい信心をしていきたいものです。