投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月17日(土)01時07分57秒   通報

善知識、諸天善神となり、尽くしていくことが地涌の菩薩であり、所謂「地涌の仏」ではないのです。あくまでも菩薩という点が大事であり、どれだけ人のために祈り行動できるかが、その人の境涯をあらわします。ある学会系の書籍でも、心の病の解決の鍵として、「菩薩界の人間を増やすこと」が、挙げられています。創価学会は、人類にとっての善知識としての役割を有していると言えましょう。

仏法者にとって一番おそれなければならないのが善知識の反対の悪知識です。しかし、信心が強ければ、悪知識をも善知識へと変えていくことができます。御書に、「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ」(P917)とあるように、マイナスをそのままプラスに転じる力こそが、妙法の真骨頂であります。逆境であればあるほど、妙法の偉大さを証明するチャンスでもあるのです。そういった信心の醍醐味を味わってこそ、不動の確信をつかむことができ、人間としての幅が広がるというものです。

学会の根底にながれる54年体質は、悪知識として表面化し、善人を亡き者にしようとしてきます。宿命転換といっても、勝手になされるわけではなく、必ず現実に形となってあらわれ、乗り越えていかなくてはなりません。今こそ、54年体質を打ち破り、創価学会の発迹顕本の時であると、私は見ています。そのためには悪知識を直視し、そこから「気づき」を得なければならないのです。

個人も組織も変わるためには「勇気」が必要です。たった一歩の勇気が、どれほどの可能性を秘め、人生を開いていくか。逆に、勇気を失ってしまったら、すべてを失うことと同じです。信心とは勇気の異名であり、「臆病にては叶うべからず」なのです。勇気は信を根本とし、臆病は不信を根本とする。師子王の心もまた勇気であり、それが仏の心なのです。ちなみに私個人としては、「一日一勇気」をテーマに掲げ、勇気を出すことを心掛けています。